宗教の勧誘と心理テクニック

先日病院をでると、日系ブラジル人の男性に声をかけられた。
その男性は、赤いバラを2本もっていて、こういう。

「あなた、このバラをあげます。一本持てば、あなたの、健康、病気、恋愛、家庭の悩みが全部きえまーす。」

私は笑って相手にしないと、続ける。

「ためしに、持ってください。もってバラを家においてくれればいい。捨ててもいい。バラを持ってから7日間以内に必ず何か変化がおきます。そしてあなたは必ず教会に来ます。」

ああ、こんなくそみてーなバラで、全部お前みたいなやつ、きえたらいいのにな とか思って、ヘッというと、しっぽを出した男性は「ではパンフレットだけでも」と引き下がる。それでも私は笑って、キリスト様がいたら、きっと嘆くだろう。と思った。

この男性は、心理テクニックを数個つかっていて、どれもお粗末なため、笑い話にしかならないが、(普通の人も引っかからないレベルだろう。)一つ一つ解説してみる。

まず、バラを2本だけしかもっていないことに注目してほしい。キリスト教なら、人間全員をもれなく救いたいはずであり、バラの数は2本では絶対に足りないはずである。ではなぜ2本なのか、これは限定品の効果と同じであり、ナイキのバスケットシューズやGショック、お一人様2つまでの半額セールのパンと変わらない効果である。
この心理テクニックをhard to get(手に入れるのが難しい)テクニックと呼称される。

次にバラを持つことを進められる。(ここがお粗末なのだが)
バラを持って7日間以内に何かが起きる、そしたらあなたはキリストを信じるだろう。とする。
7日間、何もおきない可能性は限りなく0に近い、しかも、バラに何らかの仕掛けがあることは明白である。このテクニックはLow Ball Technique とよばれる、最初の要求で取りやすい球をなげて、次の要求で、いきなり変化球をなげるテクニックである。
この男性がお粗末である理由は、バラを街中で持ち、なおかつ持って帰ることは、決して取りやすい球でないからである。しかも、このテクニックは最初の要求が通らないと、次の要求は基本的にはしてはいけない。さらに、最終目的が教会に来る=キリスト教系宗教への入信であることをばらしてしまう。いきなり種明かしをしては、せっかくのバラも効果がない。ここでこの男性はミスをしすぎているため、普通の人でもひっかからないのである。

しかし、フォローをすると、最後の「せめてパンフレットだけでも」は効果的である。私が心理テクニックをしらないお人好しだったら、受け取っていたかもしれない。これは、Door in the face Techniqueと呼ばれる、人間は最初の依頼や要求に対しては自由であるが、最初の要求を断った時点で、罪悪感が生れる。そして、次の低めの要求は割と通ることが多い。(Ex.告白を断った女性が、罪悪感を感じ、その男性の2番目の要求、(心理テクニックからすると本来の要求)、お友達からでもを軽くうけてしまう。)

さらに、私が病院から出てきた時に声をかけたことは、緊張が弛緩した状態を狙った、時機的には最高のタイミングである。私が世界の終わりみたいな不幸そうな顔をしていたのも、男性にとってはカモにみえただろう。わざと、たどたどしい日本語を使って、相手に優越感をあたえようとしているのも(アグネス・チャン)高度な心理テクニックである。

心理戦では、パンツをおろした時をねらうのが一番効果的である。なぜなら、普段のまともな判断能力がないからである。風俗業界でよくある話だ。また、相手が勝ったようにみせかけておいて、実利をこちらが得ることが肝要である。「さすが、お目が高い。あなたにだけ特別この金額で売ります。利益ないですよ。いやまいったな。」というようなやつ(実際は十分思った通りの利益がある)である。

以上、たくさんの心理テクニックが散りばめられていることがわかるが、キリスト教信者ならば、バラなどに頼らずに、隣人愛のみで勝負すべきであり、教会にこさせようとすることなど、本来はしないはずである(キリストは神殿にくることが決して許されなかった、穢れた職業の人間や、病人に対して、歯が浮くような神の教えと食物を与え、病人には感染を恐れず、看病した。神殿や教会は重要視しなかったことは聖書を読めばわかる。)先輩のライブのチケットを売りさばく、ヤンキーとなんら変わらない行為をさせている教会に誰が行くのだろうか。

2017/05/27

ゲーム制作に必要なスキルは、プログラミング言語能力でも、素晴らしいツール使用能力でも、絵画能力でも、シナリオ制作能力でも、バランス調整能力でもない。

ただ一つだけである。

最後まで、作り上げる根気。

大変地味な作業である。部屋で石膏を彫刻刀で削る作業に似ている。

さて、もやもやしていた心理学をある程度まとめたところで、私はゲームを制作することにした。動画も制作しようとしているのだが、今のところ動画についてピンとくるものがないので、ゲームから作ることにした。

さて、下のような戦闘画面を作成した。

仕様は以下の通り。

①矢印キーを押すと、バトルアクションを実行する。
②敵の攻撃に合わせて→キーを押すとバリアが張れる。
③バトルアクションやダメージを受けると必殺ゲージがたまる。

なつかしのFF2の99回ヒット!みたいなのをやりたかったのではあるが、
今更これ飽きねぇか?という疑問が生じてきた。

エロ同人RPGをやりすぎて、(もうそのシステムは時代的に)終わったから帰れよというえなりくん(仮名)がたばこを吸っている幻覚が見え始める。

戦闘はRPGの華であり、フォーティーン(我がよしだ風)や昔のFFの劣化みたいなバトルシステムだと、やる意味がないし、作り手がつまらなそうであると感じるものは、絶対につまらない。

絶対にやりたくなかったパズドラをやってみた。案の定面白くない。だが、戦闘には工夫があった。パズルを成功するとダメージが増加するのである。モンストもおはじきが成功するとダメージが増加するらしいがやっていない。歴史上の人物をググると二次元キャラのモンストのキャラが出てくるのは、私にとって非常に不快なのでやめてほしい。たまにWikipediaより上に出てくる。そこで、バトルシステムにある工夫を入れることにした。だが、それを入れると雑魚戦がだるい問題が発生してくることが予想された。RPGにおいて雑魚戦は、アクション要素がない限り、ドラクエやFFをやりこんだ私たちにとっては、ただの苦行である。フォーティーンのFC内の天才にきくと、雑魚戦なんていらないんじゃない?という回答を得た。

彼はつねに人間ではない切れ味をみせる。エヴァのMAGIのようである。

そして、マップ移動について迷っていた私に下記の着想をくれた。

 

これで作れそうである。

ユング心理学 総括 男性、女性

現代社会においてユング心理学で有用なのは、アニマとアニムスであると私は考えている。人間は外見が9割であることは、就職活動をした日本人ならほぼ全員が認めていることだろう。外見がよい女性はそれだけで採用率が高い。なぜなら、その女性がいるだけで、職場の雰囲気がよくなるし、男性の離職率がさがるからである。男女問わず、容姿のいい者は性的に自由であり、周りの劣等感だらけの男性よりも自信がついて、さらに良い結果を残すであろう。容姿の悪い人がペルソナを磨いたとしても、よい人、徳の高い人で終わる。(芸人のバカリズムさんは「よい人=死んでもよい人」とシニカルに批判する)ファンタジー小説や、ゲームに親しんでいる若い人にとって、そのような坊さんのようなペルソナにあこがれを持つ人は絶対に少ないと断言できる。そして、そういう人でイケメンでない人は、整形をしない限り、絶対にファンタジーの主人公のペルソナは手に入らない。

そういった意味では、ペルソナは最早、ただの会社勤めの人のためのマナー講座のようなものでしかなくて、内的なアニマ、アニムスを磨くべきだと私は考える。

極端な個人社会で、外界に絶望している人々にとっては、自意識過剰に着飾ったペルソナはかえって害である。容姿の良くない人が長時間化粧しても、美人の人の短時間の薄化粧に負けてしまうのである。皮膚病やアレルギー持ちの人が、赤みを消すのに抗生物質やサプリメントや栄養管理をしっかりしても、肌の美しい人にはかなわないのである。そんな風に合理的な考えが蔓延すると(知的レベルが上がった結果ではあるが)昔のオタクの心像のように服装や清潔感に注意を払わなくなる。

そして、ここ数百年の歴史で、結婚に対して、コンプライアンスのようなものが欧米にできあがると、もはや結婚は拘束でしかなくなり、永遠の愛を夢見た女性も覚めたらすぐに離婚して、アニムスを投影して過保護に育ったが、両親の幼い歪んだ愛で育った病的な子どもがあふれかえる。

社会学者の偉い先生がいくら親や子どもを教育しても、若い人にとっては恋愛すらコストが高くて、リターンが少ないつまらないものに映るのは仕方がない。永遠の愛があるのなら、大勢の人がそれを真似するだろうし、何分かに一回離婚するなどという現象は起きないはずという簡単な類推は小学生でもできるからである。ネットの普及で、現実の女性より美しい女優のエロ動画の存在や両親の不満や社会の閉塞感もこれに拍車をかける。

影やアニマ、アニムスと対決して、経験を深めるべきである。その際、ネット内にしろ、家族、学校、会社で軋轢が生じてもいいだろう。生きているのはあなた自身であり、親や社会や”なんとなくそうしたほうがいい風習”の害がない人形としてのあなたではない。

ユング心理学 アニムス

女性の場合は、いわゆる女らしい外的根本態度に対して、無意識内には未分化な論理性や強さが集積されている。それが夢においてイメージになるときは人格化されて男性像をとることが多い。それがアニムスの心像(アニムス)である。女性の内界に存在するこの男性、アニムスは、例外を許さぬ頑固な意見として外に現れてくることが多い。ユングはアニムスは意見(opinion)を形成し、アニマはムードを醸し出すといっているが、実際、世に恐ろしいのは、女性の意見と男性のムードである。どちらも不可解な頑強さをもっているのが特徴である。アニムスに取りつかれた女性は「……すべきである」と意見を述べる。これは原理的、合理的には正しいが、その個々の実際場面やタイミングに適していない時が多いので、この頑固な意見に会うと、男性は俄然感情的になって、感情的な反対論を述べる。これはいつまでたっても交わらぬ平行線であって、ほとんどの場合は時間しか解決しない。アニムスはアニマと同様に否定的な面も持つが、肯定的な面も持つ。

アニマの発展の段階が4段階であったように、アニムスも4段階に分けて考えることができる。これをエンマ・ユング(ユング夫人)は

(1) 力
(2) 行為
(3) 言葉
(4) 意味

の4段階に分けている。これはゲーテのファウストにおいて、ファウスト博士が新約聖書のギリシャ語を独訳しようと試みて、『はじめにLogosありき』のLogosを、
言葉(das Wort)、意味(der Sinn)、力(die Kraft)、そして行為(die Tat)としてみることから取ったものである。実際、アニマがエロスの原理を強調するものであるのに対して、アニムスはロゴスの原理を強調するものということができる。

力の段階は男性の力強さ、特に肉体的な力強さ(simple physical power)を示すもので、スポーツ選手などのイメージとして現れる。(小学生は足の速い男の子がもてる)
これはアニマの第一段階に対応して、「低いアニムス」とでもいうべきであろう。
次の行為の段階は、強い意志に支えられた勇ましい行為の担い手の男性像によって表される。(中学、高校は野球部、サッカー部のレギュラーがもてる)

男性の場合、アニマの問題が退行した状態で生じるときはエロチックな空想として現れることが多いが、女性のアニムスが退行した場合はエロい空想が現れることは少なく、むしろ、頼もしい男性の出現によって、未来の人生の設計という願望に満ちた考え(多分に空想的であるが、本人にとっては、一つの考えである)として生じてくる。そして、この本人にとって素晴らしい考えによって、「女性も職業をもつべきである」とか、「自分の夫はイケメンの年収1000万以上でないといけない」とか、動かしがたい意見が形成される。このように願望に満ちた考えが強くなると、それとの比較によって、外界にあらゆるものは無価値に見えたり、つまらなくなったりしてくる。何に対しても、浅薄な批判を繰り返すうちに、ついには自分にむけられ、自己評価を極端に下げたり、「大学を卒業すべきだった」とか「あの人と結婚すればよかった」と繰り返すことになる。以上、否定的なアニムスの効果について述べたが、アニムスは、このように破壊的作用のみもたらすとは限らず、女性の中にある願望に満ちた考えは、誰もが気付かぬ可能性を見出したり、新しく提出された意見や思想に対して、偏見を持たず賛同したりすることによって、建設的な役割を果たす。
男性が硬い思考の枠組みに捕らえられて、新しい傾向を排斥しようとするとき、その意義を認めて革新的な行動に加担する女性が現れ、改革の推進者となることも多い。(初期の小池現都知事がそうであったろう)

アニムスが現在の女性にとって大きい意義をもつのは、言葉・意味の段階として示される知的なロゴスの原理においてであろう。現在の合理的、客観的な思考法を尊重する時代精神に支えられて、女性はつねに、このような意味でのアニムスの問題と取り組まねばならない。アニマの特性は他人との協和であるが、アニムスの特性は、鋭い切断能力である。差を明確にし、正誤の判断を下す能力は、快刀乱麻を断つのにも比する。(民進党の代表の事業仕分けが好例であろう)

前回、キャリアウーマンが男性をKOしていき、服を着ていなかった夢を見た事例を紹介ししたが、近代女性はそのアニムスの剣によって、自分の女の命を切り刻む作業に熱中する危険性に十分注意しなくてはならない。そして、アニムスの剣は、無意識の借り物でしかないので、強烈な意見の背後に親しい男性の意見や尊敬する人のコピーを捜し出せることもまれではない。実際、自分の女らしさを殺し、周りの男性の論理で固めた女性ほど、男性に敬遠されるものはない。(現在のある知事がそうであろう。)しかし、女性が自分の自己を通す場合このアニムスを生きてみて、統合してゆく困難な道を選択しなくてはならない。

そして、この道はつねに、女としての命を失う危険性と、男性からの強烈な反対によって著しい困難を伴う。(日本の女性政治家をみていればわかるだろう。)相手の男性が太母の懐にまだ眠っている場合は(アニマ以前の段階)この傾向はさらに著しいものになる。女性の独立の動きは、この男性の安楽な眠りをおびやかすからである。
このような困難な道を避けて、女性として、買い物や掃除をアニムス的要素をおりこむことによって、満足を見出そうとするのだが、家電の発達や少子化によって、家庭の主婦はエネルギーの剰余を得て、消費法に困る。このときに、エネルギーが低いアニムスと結合すると、この女性は性的冒険を求めて行動することになる。ヤリチンが母親からの独立を求めてのあがきであると、前に述べたが、ヤリマンの性的冒険やよろめきも、自己実現の道を求めてのみじめな努力ということもできる(矢口さん(仮名))

大抵の主婦は、この性的冒険は実行せずに、せいぜいドラマ鑑賞にとどめておき、余剰エネルギーはもっぱら自分の子どもへ注がれる。
現在の夫にアニムスの像を見出せず、「ああ、あの人と結婚しておけばよかった」というアニムス(こころ)の嘆きは子どもへの期待へとかわってゆく。(父親はだんだん妻に相手にされなくなってゆく)
願望に彩られた考えは全てこどもへ投影され、子どもは母親のアニムスを生きねばならぬことになる。子どもはやさしいくちづけで、百年にわたる女性の眠りを覚ます美しい王子であることが期待される。アニムスの発展を一途に願う母親に、合理的で、科学的な教育が父親に提供されると、悪名の高いモンスターペアレントが誕生する。モンスターペアレントは通常、同時にモンスターであり、この場合の男性も母親のひざにのっている坊ちゃんであることが多い。

人間の幸福を単純に考えると、(これは河合氏の意見)アニムスに気付かないほうが女性として幸福であると言える。自身のアニムスを抑圧していたり、気づかなかったりする、人形のような女性は、男性のアニマを投影するのに最適な女性であり、同性である女性はなぜあんな無個性で頼りない女性がもてるのか当惑することが多い。

ググれば情報が出てくる時代でアニムスの存在に気付かない女性は、(デジタルディバイドされた人々は除く)少なくなっているだろう。アニムスはとらえどころがなく、ユングもはっきりしたアニムス像を分析した例は一度もないといっている。アニマが一人の女性の心像として現れるのに対して、アニムスは複数人現れることが多いという。(これは、ジャンヌ・ダルクの幻聴としての聖霊が複数いた話とも一致する)少女漫画にイケメンの男の子が複数出てくることも、女性の中にアニムスが複数あることを示唆していると私は考えている。

ユング心理学 アニマ 5

実際においてアニマを意識内に統合してゆこうとの試みは、ある意味では男性にその”弱さ”の開発を強いるものであり、真に困難なものである。どれほど強がりを言ったり、あるいは実際に強い人でも、恋愛になると急に脆くなったり、愚かになったりするのが通例である。実際、アニマは男性に弱さを経験を通じて教えてくれる。そしてこの弱さの内的経験を通じてこそ、男性は他人との真の関係を打ち立てることができる。強いばかりの男性は、支配し、命令することはできても、他人と深い対等の交わりを結ぶことはできない。心理療法家になるひとは、必ずアニマの問題に直面しなければならぬのも、このためである。(転移・逆転移の問題)

しかし、アニマと対決し、統合してゆくことと、アニマと同一化することは区別しなくてはならない。同一化するとその男性は女々しくなったり、むやみに感情的になったり、甘い感傷的な考えに陥って現実との対決をさけたりする。カウンセラーの男性の中に、女らしい感じや甘い感じの強い人がいるが、これらのひとはアニマとの同一化の危険におかされているというべきであろう。(教育評論家の尾木ママもそうかもしれない。)

一般には男性としての強さや判断力などがまず期待されるので、なにはなくても外的な期待にそえるペルソナを作り上げることが大切であるアニマとの対決はそのあとでもいい。外界に対する適当なペルソナをもたないで、内界におけるアニマとの対決をなそうとするときは、腹背に敵を受けて(挟撃)、真に危険な状態に陥るものである。例外として、芸術家や宗教家、心理療法家なども、若い時からアニマの問題と取り組まなくてはならない人もいる。

アニマは女性に対して投影されることが多いが、必ずしもそうとはかぎらず、何かの物事や物体がその役割を果たしている場合もある。その典型的な例としてはアメリカにおいては自動車やバイク、戦闘機がアニマ的な役割をもっているように思える。男性は競って、素晴らしい自動車を買い、それを世話し(時には愛撫さえする)それについて、友人たちと話し合いをする。考えてみると男性化したアメリカ人の女性に比べると、自動車のほうがはるかにアニマらしいといえるが、近代的な合理主義の産物に非合理な感情の投影をしなければならるぬのも気の毒な感じを抱かせる。河合氏はアメリカ文化をいち早く吸収する我が国においてこの無機物のアニマ化を憂いているが、皆さんご存知のように、鉄オタやフィギュアオタ、二次元オタ、アイドルオタなどもう手遅れの感じが否めない。