アンパンマンと社会の縮図

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あんぱんまんの作者やなせたかしさんは、2013年に没したが、今でも生きているような気がする人である。

あんぱんまんの最初の作品は、ヒーローもの(鞍馬天狗や月光仮面など)のアンチテーゼのような作品で、(もちろん絵本なので、劇画タッチとは違う)あんぱんまんは、ただ飛ぶことができる、腹の出ているおじさんだった。(ヒーローものということでマントは着用している)そのおなかの中にあんぱんをつめて、おなかがすいている子どもに与えて、次の街に行くのだが、最後には国境だか制空域を侵犯したかで、高射砲かミサイルで撃ち落とされてしまう。やなせたかしさんは、ヒーローは、すなわち人は何が究極的に善かを考えたときに、悪人をやっつけることでも、化け物をやっつけることでもなくて、おなかがすいている子どもに食べ物をあげることだと言っていた。

あんぱんまんとばいきんまんは相補性をなす。いわゆる人間の善と悪である。あんぱんまんを書いていて、やなせさんはスランプに陥る。善人が善行を行う話はつまらないし、ある種の説教臭さと、リアリティの欠如を感じたのであろう。そのときに生まれたのがばいきんまんだという。

あんぱんまんとばいきんまんの戦闘は、大体決まっていて、最初にあんぱんまんがばいきんまんに顔を破損されて、ぼこぼこにやられる。そのあと、ジャムおじさんが顔をとりかえて、ばいきんまんをアンパンチかアンキックでやっつける。(殺しはしない)

最初にボコボコにされるのが、実は重要で、ばいきんまんの苛立ち、嫉妬、憎しみを全部受け、(あるいは、観客やあんぱんまんの世界の住人の偽善的な彼への溜飲をさげて)一度死んでから、再生し、ばいきんまんをやっつけるのである。(私の勝手な想像だが、顔が取り換えられた時点で、取り替える以前のあんぱんまんは死んでいるのではないかと思う。)これによって、ばいきんまんに高められていたヘイトを下げ、観客と住人の溜飲を下げる。

ドキンちゃんはファム・ファタールであり、痴人の愛(谷崎潤一郎)のナオミやルパン三世の峰不二子のような運命的な悪女として描かれている。ドキンちゃん自体はしょくぱんまんのみに愛情を注ぐが、ばいきんまんのことを相手にしない。同じ菌類であるが清潔で、女性らしさをみせる。そして、ドキンちゃんの存在は、ばいきんまんの愚かな愛によって、彼の生きる源泉となっている。女の子の素直な欲求(しょくぱんまんへの報われぬ愛、(自分は菌類))を体現するとともに、悪であることを厭わず、ばいきんまんはともかく、ホラーマンという正体不明のストーカーのいる城で、たくましく生きている。

しょくぱんまんについての話が少ないのは、彼は彼自身で成立および成功しているので、単純につまらないからであろう。食パンというのも何かそんな感じがする。

ばいきんまんは敵として存在することで、自身は大悪党だと思っているが、小さな悪事を繰り返すことによって、あんぱんまんの世界の弱者(たとえばカバオ)への差別や虐待などから目をそらす役目を果たしている。ばいきんまんは、悪事をしてあんぱんまんが出てきても、絶対に後退はしない。分が悪くなって、撤退することはあっても、(彼自身の罪はほとんど、うまいものの盗み食いかドキンちゃんへのプレゼントのための泥棒である)あんぱんまんとの戦闘は避けない。そして何回やられても、どきんちゃんが振り向かなくても、馬鹿みたいに何回も立ち上がる様子が、子どもや私の胸を強くうつのである。

あんぱんまんが何回死んでも生き返る人外的な神に対して、ばいきんまんは実に人間らしい。あんぱんまんはときどき、感情が欠けているように見えるが(戸田恵子さんの優しい声でそれはあまり感じないが)、ばいきんまんは感情のかたまりである。あんぱんまんとばいきんまんはそういった意味で相補性の関係にある。

やなせさんが作詞したアンパンマンのマーチは、アンパンマンのテーマソングなどでは決してなく、子どもたちへのメッセージである。

何が君の幸せ
何をして喜ぶ
分からないまま終わる
そんなのは嫌だ

そうだ おそれないで
みんなのために
愛と勇気だけが友達さ

今をいきることで
熱いこころ燃える
だから君はいくんだ
ほほえんで

そうだ うれしいんだ
生きる喜び
たとえ胸の傷がいたんでも

この歌は聖書や眼蔵のどの一節よりも、私の胸に響くのである。