老師と少年から見る 生の意味

『老師と少年』は恐山院代の南直哉さんが上梓された、小説である。
私は、仏教徒でも、キリスト教徒でもなく、特定の思想、宗教に属さないことをはじめに明記しておく。

この小説にでてくる少年は幼き日の南さんであり、老師は南さんのマナ人格であると考える。さらに「道の人」は仏陀のことであろう。老師の足を洗う少女は何を表すのかわからないが、老人と少女という元型があるから、仏陀や如来の足を洗う少女のような存在が仏教の経典のどこかにあるのかもしれない。

この小説は悩める少年が、老師の庵を尋ね、老師と話をする。老師は一貫して、説教はしないし、ありがたい教えをすり込んだりはしない。現実を教えて、少年に決断させる。

最初の夜に、(前夜)少年は死について、老師に尋ねる。死とはなにか。お星さまになることや、遠い世界にいくことや、天国にいくこととか、そんな詭弁をききたいのではなく、死自体はなにか?どうせ死ぬのになぜ、生きるのか?最後はすべて失われ、ひとりで死ぬのに、”立派な大人”になる必要がどこにあるのか?と少年は問う。

老師は答える。大人になるとは、そういった問いを隠すことであるという。隠すことで当たり前の世界はできている。という。そして、多くの子どもは大人に隠され、当たり前の大人になるが、数少ない子供は隠されていることを忘れない。と言う。
さらに、数少ない子供はその問いに苦しみ、考え続ける。考えてしまうものは、迷い、遅れ、損をする。何も報われないし、救われない。死について、考えるべきかどうかを少年は老師に必死になって聞くが、老師は少年を突き放して自ら決断させる。

第一夜に少年は老師を尋ねる。自死(自殺)は悪かと問う。老師は答える。生きていることが苦しい人には死が解決だと思われるだろう。生きているのが厭になった人には、死は休息だと思われるだろう。死に善悪はない。だから自死も悪ではない。という。しかし老師は解決や休息を特に欲していない少年に対して、人は自ら死ぬべきではない。という。たとえ、自死が悪いことでなくても、その人にとって、生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、人は自ら死ぬべきではないという。すべての善をつくるために、人は死ぬべきではないという。そしてそれは、恐るべき苦痛だから、生きるか死ぬかの選択を別の存在<神>に託す。<神>の責任にして、彼の命令にかえる。すなわち、死んではいけない。少年は反論する。

「<神>の命令に従うかどうかは生死が選べるのと同様に選べるのではないか。」

老師は答える。

「その通り、自ら決断するか、<神>の命令に従うかは同じことで大差がない。」

老師は続ける。

「生に善悪はなく、生が善を産み出すことがありうるだけである。死を拒絶して生を選んだものが、その意味を自ら考えたとき、悪を忌み、善を求めることを信じる。」

少年は問う。

「善と悪を考えなくちゃいけない、苦しみに満ちた生を選んだ私は善き人間なのか」

老師は善きか悪きかは答えず、老師もかつてそうで、今も生きていると言うのみだ。

四夜と五夜で、老師は聖者と隠者に教えを乞うた挿話について話す。聖者は神を神殿の柱のようにまっすぐ信ぜよというのみで、理解することをゆるさない。そして信じないと罰を与えるという。
一方隠者は虚無を第一とする。<神>は永遠の夜だという。人生に意味はなく、意味もなく死ぬ。自己とはすなわち錯覚で、見えるものも聞こえるものも全て意味がなく、考えても、考えたことにすぎず、何もかもが虚無の淵にかかる虹のようなものだという。

老師と少年は虚無について共感する。少年は老師にたまらず、問う。「虚無が苦しいのだ。虚無をどうしたらよいのだ。」と。

かつての老師は隠者に尋ねた。「すべてが虚無ならば、私はどのように生きたらよいのか。全てが無意味ならば死んでしまえばよいのか」

隠者は答える。「自ら死ぬ意味もない、人の生は酩酊状態のようなもので、欲望も意思も思考も、行動も捨てて、川が海に流れ込むように、目覚めながら眠り、生きながら死ね」という。

かつての老師は気づく。「虚無とは<神>の別名にすぎず、虚無を悟り、すべてを捨てるとは、<神>を信じて従うことと変わりがない。」と。

六夜で老師が少年に老師の師である<道の人>と菩提樹で、出会った話をする。

<道の人>は話す。『人は答えを求めてやまない。その答えとは何か?何に対する答えか?自分とは何か、何故生きるのかという問いへの答えか。違う。それはたった一つの欲望に対する答えだ。』 老師がその欲望について問うと、

『自分が自分であること、自分がいまここに生きていること、それを受け容れたい。
ただそれだけの欲望が答えを求め、そしてこの欲望だけが、生きていることの苦しみだ』

老師は言う。「他人に欲望されることで、自分を支え、生きていることを受け容れる。それを持てないから苦しみ、持ったとしても苦しみはやまない。」

<道の人>は言う。『断念せよ、自分を脱落せよ。ならば問いは消滅する。』

七夜で老師はこう結論づける。「自分は自分ではない。他者が規定する自分だ。何物でもない。そして、私として生きるほかない限り、知ることもない。自分は自分ではないならば、自分を作らねばならない。水を飲む器を作らねばならない。人が生きるとはそのことだ。人が水をのむとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ。なぜなら、引き受けなくてもいいからだ。」

老師は続ける。

「善とはどのように器をつくり、どうそれを使うかということで、たった一つの正しい方法などはなく、決して間違ってはならない。器は他者から作られ、他者によって磨かれる。器は水の外でつくられるのではなく、水の中で作られる。器の外の水をくむのではない。器を作り、それを磨くときそこに水は満ちている。」

老師は少年にこう締めくくる。

「友よ。器を作れ。困難な仕事だ。それを何度も磨く。一度打ち割って、作り直さねばならぬときもある。割れた器でのまねばならぬときもある。それでも、最後まで生を飲み干せ」

この本のあとがきにある教授の”ありがたい解説”が載っている。この幼い少女こそ、老師の言っていた「生きる意味より死なない工夫」であり、温かい未来を想像させると述べられている。この少年の未来はそんなに甘いわけはあるまい。