善のイデア

プラトンが追い求めた善(のイデア)とは、先日ふれさせていただいた、『老師と少年』
の著者の南さんの『善の根拠』によれば、取引の関係にない(互酬関係)にない関りである。情けはただ人のためなりとして、見返りを求めず、彼岸(生きている)にいながら、他人を無条件に受容することである。さらに、善悪が自己を受容するかどうかにかかっている(自ら肯定されることなく、他者を肯定するかにかかっている)ならば、無根拠に他者が自己を課す(生を産む)ならば、自己も他者に自己を課さないというのが、不貪淫であり、無条件に他者を肯定するということは、不殺や他の戒も同時に課せられる。プラトンが叡智で善のイデアに立ち向かったのに対して、ニーチェは人間は根本的には「エロス」や「陶酔」や「美的なもの」「超越的なもの」をめがけて生きている。それらへ向かおうとする「力」の感覚こそ、生の本質にほかならない。しかし、個々の生がそのような欲望を持つ以上、人間全体の欲望を調停する機能として、徳や善があるのであり、力あるものが勝利するという力の論理だけが一切を覆うのに抵抗するための一つの方策にすぎないとする。

しかし、現代社会を考えてみると、力の論理だけが一切を覆っており、アメリカ大統領になることや、スーパーマン、金髪爆乳美女、アイドルや女子アナウンサーに向かって努力するのは、ある種の幼稚さを感じざるをえない。それよりもむしろ、聖人君子は偽善的だとしても、または(事実はそうではなかったとしても)ネルソン・マンデラや、ガンジーのような不撓不屈の精神や、ヨブ記のヨブのように、不合理な試練一切を耐えて、神を超えるような叡智にこそ人はあこがれるのではないか。(死ぬか善をするかの二択をせまられたことがある人の場合、欲望にはいかないことは必然だろう。)勿論、後者は少数派であり、大半はニーチェが指摘したように生きる。逆襲のシャアでシャアが「ならば、その叡智をいますぐ人類全体に授けて見せろ」とアムロにいうのだが、叡智がいきわたれば、人はもう人を造らなくなるだろう。それへの回答として、アムロはシャアのサザビーをボコボコにしたうえで、人間全体の優しさの可能性をアクシズを止めることで証明する。これは物語だが、ガンダムの一つの結論、すなわち善のイデアへの理想論的到達である。だから、後のガンダム作品のテーマはほとんど意味がないと私は考える。

善のイデアへの知的到達はすなわち、諸行無常や空への到達であり、欲望にどうしても向かってしまう人間性の否定でもある。それをとうといとするのが仏教であり、人は自分だけの快をどうしても求めてしまうから(生前は快も不快もなく、生まれた瞬間に赤ちゃんは不快と不安で泣く)、優しい人間が多数派になることはありえない。豊かに生まれた人は、自ら貧しくなろうとは決してせず、貧しく生まれた人は、豊かな人に嫉妬するだろう。人は生来的に優しくはない。ゆるやかな神の宗教が政治的利用されて紛争をまきちらしたように、宗教や法律で矯正しても、それはほんとうではない。人類が貧者の苦痛を共通で認識すれば、全員が善のイデアへの理想論的到達をするが、それは人間の品種改良と同義かもしれず、やはりプラトンへのニーチェの反論の否定は不可能としかいえないだろう。イデアはイデアでしかないのである。