なぜ人を殺してはいけないか 無差別殺人と自殺について

まず、私が南直哉さんの思想に傾倒していることを否めないことに注意されたい。
仏教的見地における、殺人について考えると、不殺生という戒がある。

不殺生

仏教における不殺は、まず自死しないという決意である。それは以前、記述した通り、
ただの決断であって、「他者に無条件に(あるいは勝手に)課せられた自己」を受容するという根源的な意志である。

悪人となるそもそもの前提は、他者に課せられた自己という存在価値に無知であることである。
無知は無明という。
無明の悲劇的にわかりやすい例が「死刑になりたいから人を殺した」という通り魔的殺人者である。
彼は自殺をせず、死刑をされたかった。それには理由がある。
自殺は自己の否定だが、死刑は他者からの否定である。
殺人者は自身の自己は深く肯定していて、他者による否定は無意味である。
死刑を望む殺人者は大抵「殺すのはだれでもよかった」という。
南直哉さんは、「殺人者が拒絶しているのは「他者に勝手に課せられた自己」という存在構造の否定である。」という。
他者を否定し(殺人)、また「他者」から否定される(死刑)ことで、自己を救出しようという錯覚である。
これは 私にも当てはまる。 他人を否定して、他人から否定されることは心地が良い。
この拒絶と錯覚は「自己の構造を受容する力を十分に供給されていない」(言い換えれば、十分に他人から尊重や承認をえていない)ことに由来する。
殺人者や私にとっての「他者」は単に、「自己」における矛盾と負担としてしか現前しない。
殺人者が「他者」を否定して結果的に死刑になっても、私が「他者」を否定して孤立して、結果的に国から見捨てられて、餓死しても、殺人者や私にとっては、「他者の否定」によって矛盾と負担から「自己」を救出することになる。
これに対して、いわゆる「自殺」は「他者に課せられた自己」という存在構造そのものに耐えられなくなった結果として起こる。自殺者は「自己」を救出することを目的としてはいない。
自己否定によって、他者の矛盾と負荷から逃れたいのである。
死刑を望むものは、「他者」の否定によって、「自己」という存在構造から「自己」を解放しようとしているし、自殺者は「自己」を消去することで、構造から離脱しようとする。

不殺生という戒は、単なる善悪論ではない。なりよりもまず、自ら死を決断しないという意志と決断である。
殺人や自殺を理論的に「説明」することは不可能である。
ただ善に結びつくかもしれないという可能性に賭け、殺さない(不殺)という決断するものである。

「もう生きていても無意味だ」と考える人は、結局は市場経済に必要とされる人間、給与明細や納税証明書が存在理由としているひとであろう。
または、他者である異性に欲望されない存在は無意味だとするものであろう。

これは「自己決定」とはとてもいえず、「市場」や「異性」(またはそのイメージあるいは社会による必要とされない人間の典型としてのレッテル)に「自己決定」させられていると言うべきである。

自己を脱落すること、みずから欠けること、しかし他者を肯定すること、他者のイデオロギー(宗教、思想)を否定しないこと、他者の目に映る自己を磨くこと。

ある人は人生は問いであり、人は問われている側だという。
これは言い換えると、ベストを尽くせということと同義である。
しかし問われ続けることは想像を絶する苦痛である。しかし、自己を脱落(とつらく)すれば、問いは消滅する。
無意識を統合した自己は2000年以上狂人の知恵をもってしても解明できなかったのは事実として存在し、著名な精神科医が「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という著書で、精神医学や心理学的見地から回答せず、
密教のトレーニング方法で回答をしめしている事実を考えると、最早、10年や50年そこらの技術で人生の問いとやらに回答する術はない(可能性が限りなく100に近い)ことは容易に想像ができる。

生きていることは、素晴らしいということは、仏陀の経典にはない。

「あなたのためを思ってやっているのよ」は支配による虐待行為であり、
「もう少し、人の気持ちを考えたら」は他者に対する一方的な自己の承認(あるいはイデオロギーの承認)の脅迫である。

他者に敬意を払い、支配されず、対等に自己を構成しなおすこと。関係性を広く深くすること。
これを続けることが善である。生きていることは素晴らしく、楽しいとはとても言えないだろう。

それらを前提としたうえで、何がダサくて、何がCoolなのかを自己決定することが、私の信念の根幹である。