皮膚科の先生ヤハウェ

私の近所の皮膚科に奇妙な診療所がある。医師は一人で、年のころ40代半ば、あるいは50代前半だろうか、女性である。その診療所だけ、治外法権の女性医師による独裁国家である。

私の場合だけつらく当たることは考えられないので、男性患者及び、医療事務、クラーク、薬剤師には同様の傲慢さで応対していると思われる。私は自分の醜い手にはあまり関心がないので、「手はどうですか?」という問いに対して、「大して変わらないですね」と回答すると、ヒステリーを起こした。「治ってるじゃないの!そういういい方されると傷つくのよ!」と言う。なるほど、医師も傷つくらしい。

そういえば、私も傲慢な態度でよく人を傷つけていたような気がする。私の影の鏡をみているようである。これは投影の良い対象であるが、病院を変えたいと思ったことは言うまでもない。しかし、今後は誰に対しても、言葉を慎重に選ばなければならないと考えるきっかけを与えてくれたことは感謝である。

聖書のヨブ記には、ヤハウェの理不尽で破壊的ともいえる虐めに耐えて、ヨブの信仰心がついに神を折れさせる話が語られている。ユングのヨブ記への回答の一節には、ヨブ記におけるヤハウェは全知全能であるが故に、信仰の対象でなくなることを恐怖したとする。サタンはヤハウェの影のように、ヤハウェに対して賭けを持ちかける。「ヨブの厚い信仰も過酷な運命に屈しては、捨ててしまうのではないか?」
ヤハウェはそれから、ヨブを虐げ続けるが、ヤハウェにヨブは神が自分の目の前に顕現したことで、神を知り、神が慈愛に満ちて、完璧な存在でないことを知りながらも、信仰心を捨てず、ヤハウェの傲慢な質問に対して、ヨブは叡智に満ちた回答を続けた。ユングは全能なる神に対して叡智が勝利したとしている。

ヨブ記には有名な次の一節がある。

「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経論を暗くするとは」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしがはなす。
おまえに尋ねる。私に答えてみよ」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、私は塵と灰に伏し、
自分を退け、悔い改めます。

すなわち、神は正義など欲しはしない。ただ力を誇示するのみである。ヨブは神を道徳的存在として敬っていたので、そのことを考えに入れられなかった。
ヨブは神の力を疑ったことはないが、それと同じように、神の正義も望んでいた。しかし、ヨブは神の矛盾した性格に気付いた時、既にこの過ちを撤回し、神の正義と善の収まる場を設ける。

ヤハウェは灰にまみれ、陶片で腫物を掻く虫けらのようなヨブに高らかに力を誇示するが、人間の限界を超えた暴力を受けたヨブにそんなことをする必要はない。ヤハウェが自身の全能と偉大さを強調するその激しさは、ヨブとのかかわりでは無意味なことだ。ヤハウェが恐れているのは、ヤハウェの全能を疑う聴衆である。ヤハウェは自分が最も嫌いな神の懐疑者の顔をヨブに投影している。しかし、この懐疑者の顔はヤハウェ自身である。
ヤハウェは大洪水のように非合理的な振る舞いをするかと思えば、次の瞬間には、愛され、称賛され、尊敬され、崇められ、義をたたえられることを望む。
一方で、自分の行動が、自分の道徳規範の項目に反していても、全く意に介さない。
ユングは以下のようにヤハウェを評する。

「いかなる倫理的法則にも従わない、支配できない、残酷な自然の諸力すべての創造者、それが私だ。私自身も非道徳的な自然の力の一部であり、自分自身の背後(影)をみることができない、純粋に現象するだけの人格なのだ。

これはヨブにとっても、道徳的な満足のひとつである。人間はその無力さにもかかわらず、神自身よりも上位の裁判官の役にまで引き上げられるからである。

傲慢な上司、政治家、親などいくらでもこのような似た例はあげられるであろう。暴君に対しては、服従と従順を示し、叡智をもってこえるしかない。
皮膚科のババアは皮膚科だからって皮膚のことだけ見ればいいってもんじゃないんだけどとはいいたいが、これも試練である。もしかしたら、悪役を無理に演じているのかもしれない。
その可能性は0に近いが、私の病症が改善しているのは間違いない。