シャアのアクシズ落としの理由

 

機動戦士ガンダム 逆襲のシャアは1988年に公開された映画である。
この名作は、ロボットアニメのエッセンスが全てがつまっており、
富野監督の最高傑作と言える。

変形機構をもつリ・ガズィ、主人公アムロの未完成新型機νガンダムへの乗り換え、
ファムファタールのクェス、巨大モビルアーマーα・アジール、そして宿敵シャアのサザビー撃破。

富野監督は人類進化をガンダムを通して伝えたいのだとはっきりわかる作品である。
アムロとシャアの戦闘中に次のようなセリフを言う。

シャア 「地球に残っている連中は、地球を汚染しているだけの人々だ。地球は人間のエゴ全部を飲み込めやしない。」
アムロ 「人間の知恵はそんなもんだって乗り越えられる!」
シャア 「ならば今すぐ愚民ども全てに叡智を授けて見ろ!」

アムロ 「世直しのこと、知らないんだな。革命はいつもインテリが始めるが、夢みたいな目標を持ってやるから、いつも過激なことしかやらない。しかし革命の後では、気高い革命の心だって官僚主義と大衆に飲み込まれていくから、インテリはそれを嫌って世間からも政治からも身を引いて世捨て人になる。」
シャア 「私は世直しなど考えていない。愚民どもにその才能を利用されている者が言うことか!」
アムロ 「貴様ほど急ぎ過ぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」
シャア 「結局、遅かれ早かれこんな悲しみだけが広がって地球を押し潰すのだ。ならば人類は、自分の手で自分を裁いて、自然に対し地球に対して贖罪しなければならん。アムロ、何でこれが解らん。それを解るんだよアムロ!」
アムロ 「解ってるよ!だから、世界に人の心の光を見せなけりゃならないんだろ!」

この恐ろしく逆の立場の二人。マイナスとプラス。陰と陽である。
なぜ、シャアはアクシズを落とそうとしたのか?

私がやりたかったのは、地球を守る事ではなく、地球にいる「魂を重力に囚われた」人類の粛清なのだよ。
人類が地球を捨て、スペースノイドになることにより、「人類の新たなる革新」であり、人類を未来に導く「ニュータイプ」になることができる。
これは父、ジオン・ズム・ダイクンが提唱した概念の一つであり、宇宙という広大な生活圏を手に入れた人類は洞察力、認識能力が拡大し、
肉体的、精神的にあらゆる物事を理解する事ができ、それが全人類に広がった時にかつてなしえなかった相互理解が可能となるのだ。

それで、地球にはしばらくの間休んでもらおうという訳だよ。
…まぁ私のエゴだがね。

Yahoo知恵袋に本物のシャアがいました。
そもそもスペースノイドというのは弱者であり、崇高な志をもっていたシャアの父、ジオン・ズム・ダイクンはザビ家に殺されてしまう。さらに母のようにと愛していた
ララァはアムロに心を揺らされてしまう。そしてララァはシャアを守ってアムロに殺されてしまう。この悲劇がハサウェイとチェーン、クェスによって繰り返されるのだが、アムロはダークサイドに落ちず、人類進化の可能性を優しさの光で示し、たかが石ころ一つガンダムで押し出してやる。と、光で連邦軍とジオン軍をつなぎ、モビルスーツたちがアクシズの落下進路を変え、シャアとアムロは行方不明になるというのが最後のシーンである。サザビーがνガンダムに圧倒され、一方的にボコられているのでシャア=悪のようにとらえられがちだが、シャアが何もしなければアムロは腐った連邦の一兵卒で終わっていたし、人類進化の可能性も示せなかった。

シャアがアムロ、連邦に対して憎しみを抱くのは当然であり、人間に対して強い不信感を持っているのは明白である。崇高な父の志を現実にさせようと言うのは建前で、本当は何もかもに絶望して、怒りと悲しみでアクシズを地球におとすことによって滅茶苦茶にしたかったのであろう。サイコフレームの技術をチェーンを通してアムロに教えたのも、アムロに殺されたかったのかもしれない。

シャアは救われたのであろうか?果たしてアムロは正義だったのであろうか。EDテーマのTMNBEYOND THE TIME (メビウスの宇宙を越えて)にメビウスの輪から抜け出せなくてという一節があるが、彼らの世界の人類は抜け出せたのだろうか?

アンパンマンと社会の縮図

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あんぱんまんの作者やなせたかしさんは、2013年に没したが、今でも生きているような気がする人である。

あんぱんまんの最初の作品は、ヒーローもの(鞍馬天狗や月光仮面など)のアンチテーゼのような作品で、(もちろん絵本なので、劇画タッチとは違う)あんぱんまんは、ただ飛ぶことができる、腹の出ているおじさんだった。(ヒーローものということでマントは着用している)そのおなかの中にあんぱんをつめて、おなかがすいている子どもに与えて、次の街に行くのだが、最後には国境だか制空域を侵犯したかで、高射砲かミサイルで撃ち落とされてしまう。やなせたかしさんは、ヒーローは、すなわち人は何が究極的に善かを考えたときに、悪人をやっつけることでも、化け物をやっつけることでもなくて、おなかがすいている子どもに食べ物をあげることだと言っていた。

あんぱんまんとばいきんまんは相補性をなす。いわゆる人間の善と悪である。あんぱんまんを書いていて、やなせさんはスランプに陥る。善人が善行を行う話はつまらないし、ある種の説教臭さと、リアリティの欠如を感じたのであろう。そのときに生まれたのがばいきんまんだという。

あんぱんまんとばいきんまんの戦闘は、大体決まっていて、最初にあんぱんまんがばいきんまんに顔を破損されて、ぼこぼこにやられる。そのあと、ジャムおじさんが顔をとりかえて、ばいきんまんをアンパンチかアンキックでやっつける。(殺しはしない)

最初にボコボコにされるのが、実は重要で、ばいきんまんの苛立ち、嫉妬、憎しみを全部受け、(あるいは、観客やあんぱんまんの世界の住人の偽善的な彼への溜飲をさげて)一度死んでから、再生し、ばいきんまんをやっつけるのである。(私の勝手な想像だが、顔が取り換えられた時点で、取り替える以前のあんぱんまんは死んでいるのではないかと思う。)これによって、ばいきんまんに高められていたヘイトを下げ、観客と住人の溜飲を下げる。

ドキンちゃんはファム・ファタールであり、痴人の愛(谷崎潤一郎)のナオミやルパン三世の峰不二子のような運命的な悪女として描かれている。ドキンちゃん自体はしょくぱんまんのみに愛情を注ぐが、ばいきんまんのことを相手にしない。同じ菌類であるが清潔で、女性らしさをみせる。そして、ドキンちゃんの存在は、ばいきんまんの愚かな愛によって、彼の生きる源泉となっている。女の子の素直な欲求(しょくぱんまんへの報われぬ愛、(自分は菌類))を体現するとともに、悪であることを厭わず、ばいきんまんはともかく、ホラーマンという正体不明のストーカーのいる城で、たくましく生きている。

しょくぱんまんについての話が少ないのは、彼は彼自身で成立および成功しているので、単純につまらないからであろう。食パンというのも何かそんな感じがする。

ばいきんまんは敵として存在することで、自身は大悪党だと思っているが、小さな悪事を繰り返すことによって、あんぱんまんの世界の弱者(たとえばカバオ)への差別や虐待などから目をそらす役目を果たしている。ばいきんまんは、悪事をしてあんぱんまんが出てきても、絶対に後退はしない。分が悪くなって、撤退することはあっても、(彼自身の罪はほとんど、うまいものの盗み食いかドキンちゃんへのプレゼントのための泥棒である)あんぱんまんとの戦闘は避けない。そして何回やられても、どきんちゃんが振り向かなくても、馬鹿みたいに何回も立ち上がる様子が、子どもや私の胸を強くうつのである。

あんぱんまんが何回死んでも生き返る人外的な神に対して、ばいきんまんは実に人間らしい。あんぱんまんはときどき、感情が欠けているように見えるが(戸田恵子さんの優しい声でそれはあまり感じないが)、ばいきんまんは感情のかたまりである。あんぱんまんとばいきんまんはそういった意味で相補性の関係にある。

やなせさんが作詞したアンパンマンのマーチは、アンパンマンのテーマソングなどでは決してなく、子どもたちへのメッセージである。

何が君の幸せ
何をして喜ぶ
分からないまま終わる
そんなのは嫌だ

そうだ おそれないで
みんなのために
愛と勇気だけが友達さ

今をいきることで
熱いこころ燃える
だから君はいくんだ
ほほえんで

そうだ うれしいんだ
生きる喜び
たとえ胸の傷がいたんでも

この歌は聖書や眼蔵のどの一節よりも、私の胸に響くのである。

Komm,susser Tod/甘き死よ、来たれ

この曲は 旧劇場版エヴァンゲリオンの挿入歌だ。補完が始まると、この曲が流れる。エヴァはループ物に過ぎず、カヲル君の願望、すなわちシンジ君の幸福がかなうまでループするという人がいる。だから 次回作のタイトルはシン(反復記号)であるという。

いやちょっと待ってくれ。ひぐらしとかFATEとかと一緒にするなよ。テーマの重みが全然違うんだよ。エロゲーのループ物と一緒にするなよ。

庵野さんの心はわからないけれど、世界中の人々を全員救済することを考えた場合、全員の脳を幸福に改造するのが早い。そして今後不快なことがないように死を与える。ガンジーは死は救済だと言っている。それはソクラテス、プラトンに追随する考えだ。

Amazarashiのヒーローの歌詞にあるように、ヒーロー(自分)がしんでも、このクソな社会は続く。そういうことを新劇場版でやりたいのだと庵野さんが考えるほうが自然だ。