三和ゴッド

ゲームと「女神」とギャンブルと

この記事を読んで、私もこんな生活とほぼ変わらないと思った。
呉用みたいな人間が特定の外国のサーバーにいて、得意気に英語を話していたと思うと、彼らのために慣れない英語を駆使していたかと思うと、ぞっとする。

三和ゴッドと税金を納めている日本のオンラインゲームプレイヤーあるいはスマホゲームの課金者の差は何かを考えたときに、その差はバックボーンだと分かった。

三和ゴッドが深センでシャープの親会社の正社員として働いているならば、このような記事の書かれ方はしないだろう。

市場に必要とされ、社会貢献しており、家族を持っている人間を是とし、どの人間からも必要とされない家族もいない人間をクズと規定するならば、私はクズでいい。

クズはどの道、一人で死ぬので、虫みたいに無闇に増えない。しかし、平均的な人間は、クズを見ると、ザザ虫や線虫、ゴキブリをみるような目をする。存在自体が不快なのだろう。そのザザ虫やゴキブリが同時接続しているゲームで活躍していると、平均以上の人間が面白くないのは分かる。
しかも、ゲーム内でも告げ口社会で、下手なことは言えないものだから、無言プレイヤーが増える。何者でもない無言の観察者はいつも見(ケン)で、勝負してこない、コアプレイヤーのログを見ているだけだ。当たり障りのない玉虫色の世界で、視聴者全員に好かれるように作った休日の昼間の面白くない地上波のテレビのような内容をやって何が楽しいのかわからなくなった。しかも、「私は仕事や家庭が忙しいから覚えられないけど、ギミックを覚えるならもっと意味のあることを覚えたら?」とか、「こんなところでしか能力を発揮できないのか?、私はリアルも充実してますけど」みたいな態度をとられると、なんでこいつらとPT組んでクリアしなければならないのかという根本的な疑問にぶつかる。

ゲーム自体に意味はないのに、さらに意味のないストレスを強いられるならば、それはもうゲームではない。仮想(あるいは下層)社会システムプログラムだ。

オンラインゲームがいくつも生まれ、いくつも廃れるのは、プレイヤーがシステムに飽きるだけではなく、その社会は糞溜めだけど「こっちの水は甘いぞ」のような幻想が存在するからだろう。賽の河原で石を積むようなものだ。

リアルな社会がクソだからゲームをするのだが、そのリアルがクソだと思っている人間が同時接続して社会を形成するとやはりクソになるのだろう。気付くのが遅すぎたが、私は人間がそもそも嫌いであった。

紅蓮の日没

FF14の紅蓮のリベレータ―をやっていると、なぜかストレスがたまる。
やっていてイライラするのである。エキルレや真理集めも苦行で、オメガ零式をPT募集でやっていると、何で見知らぬやつのために、何回も募集しなくてはならないのか?という思いでいっぱいである。そして、クリアしたからといって射幸心は満たされない。お前暇だなと一蹴されて終わりである。コンテンツファインダーも一緒で、何故タンクだけ過重な負担を強いられるのか?DPSは待ち時間が長いから我慢せよという意見は的外れである。タンクやヒーラーはDPSに比べて、やりたくないからDPSの待ち時間が長いのだ。ギミックや地図を確認しながら誘導し、ヘイトを維持してもいいことはほとんどない。乗れる馬と活性化クラスターがたまにもらえるだけだ。

そして、PVPもジャンケンのようになったため、FF14をやる意味はもうないのではないか?前述したように、ストーリーも真新しいことはない。

一番の問題は8人のコンテンツで知らないやつと無理やり協力プレイを強いられることである。何故ダンジョンを同時に始めなければならないのか?FCやLSの意味がない。ダンジョンを複雑にして、複数人が違う時間帯に入れるようにしたほうがよくないのか?この要と言われているコンテンツファインダー機構をやめなければFF14はMMOとはいえないのではないか。スプリントのリキャストタイムが長いのでなんとかしてくれませんかというプレイヤーからの不躾な質問は、プレイヤーのストレスが溜まっていることの何よりの証拠である。

 

 

暁のリベレータ―(FF14)の感想(ネタバレ)

途中に出てくる家の石壁の”自由か死か”の文字は
ゲバラの”祖国か死か”に”インスパイア”されていると思われる。
ゲバラの評価は、およそ2つに別れる。
ひとつはジョン・レノンが言うような世界で最もカッコいい英雄、もう一つは戦禍をまき散らす共産主義者。
このたびの、ヒカセンの活躍はどうだったか。

まず、ヒカセン達と暁の人々は圧倒的なゼノン皇太子に負ける。
(多分総力戦なら勝てたと思う)
〇VEXの歌姫あゆに似ているリセ(以下ハマと呼称)は、岡村さん(パパリモ)のことをすっかりわすれ、「ヒカセン頑張って!」「ゆるせない!」(拳を握る)の2パターンのみで、精神的な成長もあまり見られない。25歳でありえない悟りを開いているヒエンの真似をしたのち、ドレスアップして私は王女です。などとおっしゃって終わる。
中でも酷かったのは、アナンタ族への対応である。おそらくヒンドゥー教からラクシュミを引いてきたと思われるのだが、星が枯れる(資源が枯渇する)という理由で、何も害を与えていない民族に対して、その民族が信仰している神を殺すのは倫理的に正しくない。この理論の思想でずっと続けるなら、もう蛮神は出してはいけないと思われるのだが…(ゲームとしては必要だろうが)
さらに、ハマのフォローは「あなたたちは大切な隣人だから、今は理解してもらえなくてもいいわ!」のみである。
ハマを愛せない理由はたくさんあるが、結局ハマは理想論のみで、手を汚さず、変な修行をして王女になったという不思議な結末にあると思う。
ハマは、「もしもし私…」の人に加えて、ヘイトが高まるだろう。なぜこのようなキャラ達に一流の声優を起用するのかはわからない。オーディションでメインキャラをとるのが一流だからだろうが…。
サディスティックで女性の怨念を見事に表現したヨツユやステップの輪廻を信じる族長の方がよほどリアリティがあり、魅力的である。

そして革命と言っている割には、戦力は圧倒的に帝国よりアラミゴ解放軍のほうが上である。帝国兵はゼノンを除けば、雑兵ばかりであり、外郭の頃から強くなりましたという描写もないため、三国とイシュガルト、暁だけでも攻略できるのではないかと思ってしまう。飛行魔道アーマーが…とかあったけども、エスティニアンのほかにもイシュガルドには竜騎士の方いっぱいいたよね…?

帝国のゼノン皇太子は確かにちょっとおかしかったけど、帝国をいじめているような気がした。作戦も全て成功し、失敗がなかった。(普通あり得ない)帝国兵はゲリラ戦術をとらなかった。
帝国も思想は星の維持であり、圧制はするけれどこちら側と変わらない、思想の弾圧と改宗を迫るのは倫理的によろしくないのではないか?

ddos攻撃を受けている中大変だろうけれど、聖ジョージ(聖ゲオルギウス)が毒竜を倒した後、殺される例を思いだしてほしい。

ストーリーについては辛らつな意見を述べたが、ゲームとしては最高に面白い。さすが世界のスクエニである。

ユング心理学からみた ペルソナ5

ペルソナ5はPlayStation4から発売されたRPGである。概要は以下の通り、

無実の罪で前科もちとなった、高校生の主人公が、仲間とともに、特殊能力を得て、社会的な悪人の精神世界に入って、自身のペルソナを変えることによって、その悪人のシャドウと戦って滅ぼして、会心させる。

これはペルソナ4とは全く異なる。ペルソナ4はシャドウと対面し、戦って、統合して力を得る話であったが、ペルソナ5は社会的な悪人のヘイトを高める演出をして、精神世界に入り込み、(シャドウとはいえ仮面を無理やりはがす演出もある。そんなことは無論してはいけない。)つまり、義賊を名乗り、悪人を精神的内部から破壊することによって正義を示すのである。(敵の同能力者は精神的に廃人にするが、主人公側の一方的な会心も私からすれば大差がない。)これは、映画「カッコーの巣の上で」、で手が付けられない障碍者や障碍者に見える人に行ったロボトミー手術と何ら変わりない。冤罪で捕まったからと言って、自分の境遇が不幸だからと言って、悪人とはいえ、人の精神を破壊する行為は赦されない。

ペルソナ、シャドウ、認知など心理学用語をつかって、購買者を釣っておきながら、誤った手法をするのはやめていただきたい。

これは、映画羊たちの沈黙やハンニバルにおける、チルトン教授の手法と何ら変わりなく、このゲームの評価が5に近いのは、私には理解不能である。