ユング心理学 アニマ 3

アニマが分析を通じて追究されるとき、それは一つの発展の過程をたどるように思われる。まず最初はアニマというよりは、母親の像があらわれる。実際、母親は各人のもつアニマの母胎となるもであって、母親のもつ温かさや甘さ、それといつまでも(母親が)子どもを自分のものとして独占したい烈しい力とは、アニマの性質にも受け継がれている。母親の甘さと呑みこむ性質(devouring quality)のゆえに(肉の渦の心像が記憶に新しい)、いつまでも母親に抱かれていて、アニマの発展が制止させられている人も多い。このような段階にとどまっている男性は同性愛や、浅薄なヤリチン型に陥る人も多い。すべてのヤリチンがそうであるとは言えないが、異性の中に母なる愛を求めようとして、その満足が得られないまま、次々と相手を変えてゆかねばならないのである。心理的には母親の胸に抱かれていながら、多くの女性を征服したと錯覚を起こしている男性もいる。次に母親とアニマ像の移行段階として、母親代理の心像が現れる。「いつもやさしくしてくれた近所のお姉さん」や「学校の女の先生」(姉フェチの人はこの段階であると思われる。エヴァンゲリオンでいうところの葛城ミサト。庵野さんは劇中でシンジ君がアニマに揺れている様相を見事に表している)
この段階を経て、アニマが登場するが、これをユングは四段階にわけて、第一段階を
“生物学的な段階”、次にロマンチックな段階”、そして、“霊的(spiritual)な段階”
最後には“叡智(wisdom)の段階”としている。

初めの生物的な段階は、ともかく女であること、子どもを産み出すことができることが大切である。とくに、その性の面が強調され、母親からの分離を明らかにするものとして、娼婦のイメージが現れる。(小説、”アルジャーノンに花束を”で、チャーリィが知的に成長してゆく過程で、アリスよりも娼婦型の画家の女性に心を奪われることがある。)

ものをうみだしてゆく、の存在をここにおいて、経験し、受け入れさせられるのである。この段階に達した男性(童貞を捨てたばかりの男性)は前の段階に踏みとどまっている童貞を嘲笑したり、バカにしたりするが、この段階では性について知っていても女性については知っていないということもできる。

次の段階として、ロマンチックなアニマが登場する。先の段階では女でさえあればだれでもよかったが、この段階では”一人の女性”に対する愛が生じてくる。ここでは女性を人格として認め、それに対する厳しい決断が必要となる。ロマンチックアニマという場合、これをアニマの前段階、母親依存状態や、葛城ミサト状態と混同しないようにしていただきたい。ここで述べているロマンチックアニマは西洋文学が心血を注いで描き続けてきた永遠の愛とかそういうものであり、日本で一般にフェミニストとか、ロマンチストなどと呼ばれている男性は、アニマの前段階でとどまっていて、「娼婦型のアニマ」との対決を避けている人が多いように思われる。そしてこれらの人に感じられる共通点は芯が弱いことである。

ユング心理学 アニマ 2

夢 妻が子供をみごもる。しかし、妻は経済的理由を楯にして堕ろそうという。私はこれに反対する。非常に奇妙なことに、生まれてくる女の子のあかちゃんがみえる。私はあかちゃんをみたので、ますます子供を生むことを要求するが、妻は経済の貧しさを説明して強く反対する。「まったく女性は現実主義で困る」と思いながらも、私は収入を増やす方法を考えるからと言い、妻もとうとう同意する。(ここから自分が観察者か、夢の中の人物なのかあやふやになる)一人の見知らぬ男性が現れ、今から笛を吹き、ラジオで放送するという。この男はマイクの前に立って笛を吹こうとするが、笛の音を放送するよりも、人口流産の反対演説をしたほうがはるかに有益だと考える。(この時点で、自分が知らぬ間にこの男になっている。)人間の生命の尊さについて述べはじめる。このとき、背後から悲しさに満ちた笛の音が嫋々(ジョウジョウ)と流れてきて、私は叫びだしたいほどの深い感動におそわれながら、演説を続ける。

この男性は、過去に自ら妻に合理的な処置をしているが、夢では反対の立場をとっている。アニマは男性の心のなかの抑圧された劣等なものと結びつきやすく、多くの場合その劣等機能を結合している。河合氏は笛を吹く自分自身がアニマだとし、思考型のこの男性の劣等機能である感情機能がアニマと結びついていると説明しているが、私はこの女の子の赤ちゃんがアニマだと考える。どちらにせよ、アニマの感情が笛の音によって表されていると考えるのが妥当だろう。アニマが動物で現れる場合もあり、「白鳥の乙女(swan maiden)」の話は全世界に分布している。(日本では鶴の恩返し、ギリシア神話のレダに近づく白鳥姿のゼウス、北欧神話でありスノッリのエッダにもみられる)この話がどこまで伝播によるものか、その国古来のものなのか、見分けることは難しくなっているが、似た話が全世界の人の心を打って、語り継がれている事実は、アニマの心像(またはアニマ)が人類共通の普遍的無意識(集合的無意識)に根ざしていることを示しているものと考えられる。白鳥の乙女の物語は、アニマの持つ抗しがたい魅力と、そのとらえがたさを生き生きと我々に伝えてくる。

男性の心のなかにあるこの「永遠の女性」(アニマの心像)は、外界に投影されることによって、その性質の一端を我々に示す。実際、男性は自分を取り巻く女性の中にそれをみる。または、見たように感じる。全員の反対にあって、苦しんでいる男性に「私は信じています」との一言で、この男性の創造力の源泉になる女性もあれば、成功の絶頂にある男性に対して、ちょっと片目をつぶるだけで彼を奈落に落とせるのも女性である。古来から、この永遠の女性を芸術家たちは描き続けてきたが、そのような芸術に頼らなくても、40,50代を過ぎてから、女狂いを始めて、自分も周囲も苦しめている男をすぐみつけることができるだろう。ユングは人生の後半の重要性をよく強調する。人は人生の斜陽に人生の意義を見出さなくてはならない。この時期になって、今までの価値概念が急激に変化し、それに対応できず、生きてゆくことの意義を見失ったように感じて悩む人も多い。地位や財産、名声を求めて外へ外へと向かっていった人が、このときになって今までと異なる内的な世界に気付き始める。この内界(内的な世界)にある「こころ」(アニマ)は外界の女性に投影され、四十代の恋が始まる。その恋人は「あまりにも意外な」タイプであることに驚くかもしれない。お堅い学者が、娼婦(ヤリマン)型の女性に心を奪われたり、ドン・ファン(ヤリチン)としてしられた男性が、ただ一人の清純な少女に変わらぬ愛を誓ったりする。これらはペルソナとアニマの相補性を考えると当然のことであり、慧眼なひとであれば、この一見愚かしく見える恋の中に、その男性が開発させてゆくべき可能性の輝きを見出すことができるだろう。実際、そのような女性に自分をしばりつけようとする自分の心の中の因子、アニマの存在に気付き、それと対決してゆこうとすることによって、このひとは自分をますます豊かにし、統合性の高い人格へと発展してゆくことができる。

 

ユング心理学 アニマ 1

男性の「こころ」の像は、夢の中では女性像をとって現れることが多い。
次に、その典型的な夢を一つあげる。これは若い独身の男性の夢であるが、細かい点は省略して示す。

夢 私は誰かと海水浴にゆくところであった。行きたくはなかったが、私はどうしても行かねばならないことを知っていた。海岸では中学時代の先生が水泳を教えてくれた。他のひとたちが皆泳いでいるとき、私は一人離れて海岸にいた。すると突然、海底から裸の少女が浮き上がってきた。私は慌てて助け上げ、人工呼吸をする。私は彼女のかすかな息を感じてほっとする。彼女のために暖かい着物を探すため帰宅するが、たくさんの衣類はどれも小さすぎてだめ、衣類を探し回っているうちに目が覚める。

これは、危機状態にあった見知らぬ少女、アニマを救い出す典型的な夢である。この夢は分析を開始することを決めたすぐ後にみられたもので、初回夢と呼ばれる。
海水浴にいきたくなかったが、いかねばならないというところは医者にいきたくはないが行かなくてはならないという気持ちを表しており、海は無意識そのものを表している。水泳を学ぶことは、無意識の世界に入り、それについて学ぶことを示されている。一人離れているときに、(伝説やおとぎ話の主人公たちも、森の中に迷い込んだり、両親に捨てられたリ、一人旅にでたりすることが異常な体験の発端になっている)
アニマは水死体に近い姿をとって現れ、この人を驚かす。アニマは危険な状態である。この人は彼女は救い上げて、人工呼吸する。まさに、無意識の世界に沈み、彼との接触を断たれて死にかかっていた彼の「こころ」を、再びよみがえらせて、接触を回復したものといえる。人工呼吸のテーマは、ラテン語のアニマ、アニムスが共に、ギリシャ語のanemos(風)と同じ意味であって、「こころ」あるいは「たましい」が「息」や「動く空気」の表象と深い関連を有している。
アニマは息を吹き返して喜ばしいが、最後のやや不満足な結末は彼のもちあわせているペルソナ(衣服)は小さすぎて、そのアニマを包むのにふさわしくないことを明らかにしているのである。この人は長い治療を通じて、そのアニマを獲得するために勇気のある努力を続け、また同時にそれにふさわしいペルソナを確立するために相当な困難と戦い抜いていった。

ユング心理学 ペルソナとこころ 3

ペルソナという言葉は、もともと古典劇において、役者が用いた仮面のことである。
ユングがこのような言葉を借りてきた意図は明らかであり、ペルソナとは我々が外界に対してつけている仮面でもあるということができる。ペルソナは夢の中では人格化されて現れることは少なく、一般に「衣服」など自分の身につけているもので表されていることが多い。適切なペルソナを持っていないという意味で、衆人の中で裸でいる夢を見たり、場違いの服装をしていたりする。ペルソナは人格化されることは少ないが、通常は同性の人間によって示される。

次にペルソナの問題を示している夢の一例をあげる。これは、職業をもったある未婚の女性の夢である。

夢 私は数人の男と戦っていた。私は座って、彼らを次々と、黒い傘や棒切れでなぐりつけ、彼らは”のびて”順番に川に落ちていく。さて、最後の一人になって、もう降参しろといったが聞き入れない。そこで、私は今日でも明日でも相手になってやると言って立ち上がった。そのとたん、私は自分が全く何も来ていないことに気付き、恥ずかしさでとまどってしまう。私は座り込んで、ともかく水着を着ることにしようと言った。
――私たちは、戦うために海水浴所に行ったようである。

この夢は座りながら、男性をKOしていった女性が、最後に立ち上がって自分の裸に気付くところが印象的である。この夢の場合は女性が適当なペルソナを欠いているといった意味の強い夢である。(河合氏はペルソナを認識するので裸の夢はよいとも述べている。)この女性はいわゆるキャリアウーマンで、能力があるが、対人関係でうまくゆかず、困っていた人である。

この夢の話し合いについて明らかになったことは、言わなくてもよい事実を言ってしまって、上役からにらまれたり、仕事をやりすぎて同僚から嫌がられたりすることなどであった。うそをついたり、仕事を怠けたりして、問題を起こすひともいるが、このように、本当のことをいったり、仕事に熱中しすぎて、対人関係を悪化する人もいる。裸になるのは結構だが、時と場所によるのである。このひとはともかく、水着をきようとする。裸より少しはましということである。

衣服がペルソナを表すことは、実際生活において、あまり自分の「こころ」を示すと危険な職業についていることにも反映されている。警官、看守、軍人などこれらのひとは、つねに人間のこころの問題にふれねばならないので、それに深入りする危険制服によって防衛しているということもできる。しかしながら、防衛の手段としての制服は、しばしばそのひとの全身を覆ってしまって、そのなかに”生きた人間”がいるのかどうかを疑いたくなるようなことも起こってくる。これがペルソナとの同一視の危険性である。ペルソナの形成に力を入れすぎ、それとの同一視が強くなると、ペルソナはその人の全人格をおおってしまって、もはやその硬度と強度を変えることができなくなり、個性的な生き方ができなくなってしまう。いつかマルセル・マルソーのパントマイムをみたとき、ある男がいろいろな面を被ってよろこんでいるとき、道化の面を被ると、取れなくなってしまって困るという演技があった。身体はもがき苦しむが、ずっと顔のほうは道化の笑い顔で、この相反するものを表現してみせるところにマルソーの演技が輝きを見せる。これは、まさに硬化したペルソナの悲劇を演じているものと感じられたのだった。

ペルソナを上手く使い分けている人もいる。実際に我々は、場所の異なるに従い、ペルソナの種類を変えてゆかねばならないのである。このペルソナの発達を怠るひとは外界と摩擦をおこしやすく、他人の感情を害したり、自分の能力をスムースに発現し難くすることが多い。ペルソナは自分の内的なものに根ざしながらも、外的なものに対する役割を演ずるために採用されたもので、社会の中にスムースに生きていくためには必要であると河合氏は述べる。(私の意見とは少し異なる。(*1))

一人の男性が「男らしさ」を強調するペルソナを持つとき、それはうちに存在する女らしさ、アニマによって平衡が与えられ、女性の場合はそのアニムスによって補償される。しかし、これが相補的に働くよりも、極端な同一化の機制によって、むしろ破壊的に作用を及ぼすこともある。常に強く、厳しい男性が、浅薄な同情心に流されて失敗したり、いつも愛想のよい奥さんが、偉い人の意見を基にしてお客さんに説教をはじめたりするのも、このためである。このような危険性を防ぐためには、あくまでペルソナやアニマ・アニムスとの同一視をさけ、それらを分化して、よく認識してゆくように努めねばならない。ともすれば、硬くなりがちなペルソナに柔軟性と躍動性を与える、無意識の奥深く存在するアニマとアニムスについて、節を分けて詳しく研究してみる。

(*1):太宰治は「人間失格」において、道化のような顔をずっと演じていて、性格も人生も破たんしてしまった自身の写しを描いている。さらに、例えば、こころの内容は悪そのものなのに、童顔であるゆえに、えなりさん(仮名)のような演技を続けなくてはならないのは地獄である。これは王室にも言えることかもしれない。環境や、自分の容姿によって、ペルソナが決定づけられ、それによって、社会から常にRPGの毒のようなダメージを受けつづける人もいるということである。

下は河合氏が言及していると思われるマルソーの演技である。
狂気的な演技とラストのカタルシスは見事である。

 

ユング心理学 ペルソナとこころ 2

内的適応の問題について、河合氏がアメリカに留学した時に見かけた日本人留学生の一例を示す。彼はアメリカ人とアメリカに非常によく溶け込み、周りの日本人の留学生から羨望と嫉妬のまなざしをうけたのだが、ある時、河合氏に相談に来て、原因不明の慢性下痢に悩まされていることを告げる。アメリカの医者にかかって、この人は異国の社会に適応できなくて、神経性の下痢が生じたと診断を受けた。そしてこのような人は一人ではなかった。

このことは彼らが外的環境に適応しすぎて、自分のうちのこころ(soul)との接触を失いそうになったと言えるのではないか。人間は外的にも内的にも適応をおろそかにすると神経症を発症する。この点に注目して、ユングは内的にも外的にも適切な態度をとらねばならないとし、それらの元型(archetype)として存在する根本態度を考え、
外界に対するものをペルソナ内界に対するものをアニマとよんだ。ここでいう、
アニマが、ユングにとってはこころ(soul)と同義語である。
つまり、元型として無意識内に存在する、自分自身への内的な心的過程に対処する様式、内的な根本の態度を「こころ」とかんがえるのである。

繰り返し述べるが、元型は不可視であるので、意識的に把握できないが、心像として現れたものを、われわれは把握することができる。それが、「こころの像(soul-image)」であり、夢の中では異性の像として人格化されることが多い。夢に現れる女性像は正確には、アニマ(元型のひとつ)の心像というべきであるが、ユングはこれもアニマと呼んでいる。こころ同義語のアニマという言葉をわざわざ用いるのは、この夢の中の(無意識の中の)女性像をさしていう場合が多いからである。

ペルソナとアニマは相補的に働くものである。男性の場合であれば、そのペルソナ(外的態度)は、力強く、論理的であることが期待される。しかし、こういう人の内的態度は、これと全く相補的で、弱弱しく非論理的である。実際、非常に男性的な強い男が、内的には著しい弱さをもっていることがよくある。このように一般に望ましいと考えられる外的態度、ペルソナから締め出された面が、こころの性質となるのであり、これが心像として現れるときは、女性像として現れることになる。
これが、女性の場合であると、一般に期待される態度、やさしさとか柔軟さなどがペルソナを形作り、そのこころの像は男性像として人格化されて現れることとなる。
この男性像をアニムス(アニムスの心像)と呼ぶのである。アニムスはアニマの男性型である。(ラテン語で、たましい、精神をあらわす)。このアニマ・アニムスは我々の心のうちにあって、我々の行動に影響を及ぼす。これらは人間な意識的な態度に欠けている機能を全部含んでいるので、我々の「おもいがけない」働きをすることになり、否定的にも肯定的にも大きい意味を持つ。

規則を守る機械のような堅い兵卒に「少しくらい、帰営がおくれたっていいじゃないの」とアニマはささやくかもしれないし、田舎で百姓をしている娘に対して、「お前は銃をとって、国防の第一線につかねばならい」とアニムスは命令するかもしれない。これらのことは、彼らのペルソナ(外的態度)からすると、不可能に思えるようなことであるが、その抗しがたい魅力や、圧倒的な力強さに押されて、それに従うことになり、あるひとは転落の一途をたどり、あるひとは国民的英雄にさえなる。これら、アニマ・アニムスは創造的で、危険性が高い。

蛇足になるが、河合氏はジャンヌダルクが聞いた聖霊や大天使のお告げはアニムスの仕業だと考えていると思われる。