般若心経入門

般若心経とは”はんにゃしんぎょう”と読む。しんきょうではない。प्रज्ञापारमिताहृदय : Prajñā-pāramitā-hṛdaya、 プラジュニャーパーラミター・フリダヤから来ている。
はんにゃとは、サンスクリット語 प्रज्ञाprajñā,プラジュニャー; パーリ語: पञ्ञाpaññā,パンニャーから来ており、般若の面のような妖怪の意味ではない。般若とは知慧という意味だ。アビダルマでは「慧」 (prajñā) を心の作用として、それは見られる対象を分別し、それが何であるかを決定し、疑心を断じて、そのものを本当に理解する心のはたらきであるとして、それを「簡択」(けんちゃく、簡はえらぶこと・択はきまりをつけること)の作用をもつ心のはたらきとする。この慧によって決断することを「智」 (jñāṇa) という。
波羅蜜多という奇妙な漢字列はpāramitā (パーリ語: पारमि、Pāramī、 パーラミー、サンスクリット語: पारमिता、Pāramitā、 パーラミター)とは、パーリ語やサンスクリット語で「完全であること」、「最高であること」、を意味する語で、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸(とうひがん)、度(ど)等とも訳す。

六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ、梵:Ṣatpāramitā)とは、ブッダになりうる資質を獲得するために実践する六つの項目のこと。「六度(ろくど)彼岸」とも呼ばれる。

  1. 布施波羅蜜 – 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
  2. 持戒波羅蜜 – 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
  3. 忍辱波羅蜜 – 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
  4. 精進波羅蜜 – 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
  5. 禅定波羅蜜 – 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
  6. 智慧波羅蜜 – 般若(はんにゃ、Prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。そういえば、六波羅探題というよくわからない鎌倉時代の職があったが、この六波羅蜜からきているかもしれない。

以下は、代表的な流布テキストである。300字程度である。

仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

羯諦羯諦、波羅羯諦というのは「羯」は、行きなさいの意、「諦」は、悟りの世界の意。つづく「波羅羯諦」の「波羅」は、修行の意。修行をやって悟りの世界へ行けということである。つまり、自力の修行をしている人が読むお経である。薩婆訶とはソワカであり、真言(マントラ )である。真言はヤバめなので解説は省略する。
色即是空とはこの世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空(くう)であり、不変のものではないという意。空即是色とは物の本性は空(くう)だが、それがそのままこの世の一切のものであるということ。無や不の後にネガティブな言葉が続くことがわかる。仏教の空とはシューニャ(サンスクリット語: शून्य, śūnya)、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味。(インドでシューニャは数字の0を意味する)

ネガティブな語を否定する文が多いことから、妖怪退治や病気治療のときに唱えられてきた。

つまり人生は意味がないから、修行して、0になれという身も蓋もない話なのだが、何故か支持者が多いのが仏教である。差別や貧困にあえぎ、不幸が輪廻したとしても、それに対抗する手段としてこの宗教があるのだろう。

皮膚科の先生ヤハウェ

私の近所の皮膚科に奇妙な診療所がある。医師は一人で、年のころ40代半ば、あるいは50代前半だろうか、女性である。その診療所だけ、治外法権の女性医師による独裁国家である。

私の場合だけつらく当たることは考えられないので、男性患者及び、医療事務、クラーク、薬剤師には同様の傲慢さで応対していると思われる。私は自分の醜い手にはあまり関心がないので、「手はどうですか?」という問いに対して、「大して変わらないですね」と回答すると、ヒステリーを起こした。「治ってるじゃないの!そういういい方されると傷つくのよ!」と言う。なるほど、医師も傷つくらしい。

そういえば、私も傲慢な態度でよく人を傷つけていたような気がする。私の影の鏡をみているようである。これは投影の良い対象であるが、病院を変えたいと思ったことは言うまでもない。しかし、今後は誰に対しても、言葉を慎重に選ばなければならないと考えるきっかけを与えてくれたことは感謝である。

聖書のヨブ記には、ヤハウェの理不尽で破壊的ともいえる虐めに耐えて、ヨブの信仰心がついに神を折れさせる話が語られている。ユングのヨブ記への回答の一節には、ヨブ記におけるヤハウェは全知全能であるが故に、信仰の対象でなくなることを恐怖したとする。サタンはヤハウェの影のように、ヤハウェに対して賭けを持ちかける。「ヨブの厚い信仰も過酷な運命に屈しては、捨ててしまうのではないか?」
ヤハウェはそれから、ヨブを虐げ続けるが、ヤハウェにヨブは神が自分の目の前に顕現したことで、神を知り、神が慈愛に満ちて、完璧な存在でないことを知りながらも、信仰心を捨てず、ヤハウェの傲慢な質問に対して、ヨブは叡智に満ちた回答を続けた。ユングは全能なる神に対して叡智が勝利したとしている。

ヨブ記には有名な次の一節がある。

「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経論を暗くするとは」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしがはなす。
おまえに尋ねる。私に答えてみよ」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、私は塵と灰に伏し、
自分を退け、悔い改めます。

すなわち、神は正義など欲しはしない。ただ力を誇示するのみである。ヨブは神を道徳的存在として敬っていたので、そのことを考えに入れられなかった。
ヨブは神の力を疑ったことはないが、それと同じように、神の正義も望んでいた。しかし、ヨブは神の矛盾した性格に気付いた時、既にこの過ちを撤回し、神の正義と善の収まる場を設ける。

ヤハウェは灰にまみれ、陶片で腫物を掻く虫けらのようなヨブに高らかに力を誇示するが、人間の限界を超えた暴力を受けたヨブにそんなことをする必要はない。ヤハウェが自身の全能と偉大さを強調するその激しさは、ヨブとのかかわりでは無意味なことだ。ヤハウェが恐れているのは、ヤハウェの全能を疑う聴衆である。ヤハウェは自分が最も嫌いな神の懐疑者の顔をヨブに投影している。しかし、この懐疑者の顔はヤハウェ自身である。
ヤハウェは大洪水のように非合理的な振る舞いをするかと思えば、次の瞬間には、愛され、称賛され、尊敬され、崇められ、義をたたえられることを望む。
一方で、自分の行動が、自分の道徳規範の項目に反していても、全く意に介さない。
ユングは以下のようにヤハウェを評する。

「いかなる倫理的法則にも従わない、支配できない、残酷な自然の諸力すべての創造者、それが私だ。私自身も非道徳的な自然の力の一部であり、自分自身の背後(影)をみることができない、純粋に現象するだけの人格なのだ。

これはヨブにとっても、道徳的な満足のひとつである。人間はその無力さにもかかわらず、神自身よりも上位の裁判官の役にまで引き上げられるからである。

傲慢な上司、政治家、親などいくらでもこのような似た例はあげられるであろう。暴君に対しては、服従と従順を示し、叡智をもってこえるしかない。
皮膚科のババアは皮膚科だからって皮膚のことだけ見ればいいってもんじゃないんだけどとはいいたいが、これも試練である。もしかしたら、悪役を無理に演じているのかもしれない。
その可能性は0に近いが、私の病症が改善しているのは間違いない。

なぜ人を殺してはいけないか 無差別殺人と自殺について

まず、私が南直哉さんの思想に傾倒していることを否めないことに注意されたい。
仏教的見地における、殺人について考えると、不殺生という戒がある。

不殺生

仏教における不殺は、まず自死しないという決意である。それは以前、記述した通り、
ただの決断であって、「他者に無条件に(あるいは勝手に)課せられた自己」を受容するという根源的な意志である。

悪人となるそもそもの前提は、他者に課せられた自己という存在価値に無知であることである。
無知は無明という。
無明の悲劇的にわかりやすい例が「死刑になりたいから人を殺した」という通り魔的殺人者である。
彼は自殺をせず、死刑をされたかった。それには理由がある。
自殺は自己の否定だが、死刑は他者からの否定である。
殺人者は自身の自己は深く肯定していて、他者による否定は無意味である。
死刑を望む殺人者は大抵「殺すのはだれでもよかった」という。
南直哉さんは、「殺人者が拒絶しているのは「他者に勝手に課せられた自己」という存在構造の否定である。」という。
他者を否定し(殺人)、また「他者」から否定される(死刑)ことで、自己を救出しようという錯覚である。
これは 私にも当てはまる。 他人を否定して、他人から否定されることは心地が良い。
この拒絶と錯覚は「自己の構造を受容する力を十分に供給されていない」(言い換えれば、十分に他人から尊重や承認をえていない)ことに由来する。
殺人者や私にとっての「他者」は単に、「自己」における矛盾と負担としてしか現前しない。
殺人者が「他者」を否定して結果的に死刑になっても、私が「他者」を否定して孤立して、結果的に国から見捨てられて、餓死しても、殺人者や私にとっては、「他者の否定」によって矛盾と負担から「自己」を救出することになる。
これに対して、いわゆる「自殺」は「他者に課せられた自己」という存在構造そのものに耐えられなくなった結果として起こる。自殺者は「自己」を救出することを目的としてはいない。
自己否定によって、他者の矛盾と負荷から逃れたいのである。
死刑を望むものは、「他者」の否定によって、「自己」という存在構造から「自己」を解放しようとしているし、自殺者は「自己」を消去することで、構造から離脱しようとする。

不殺生という戒は、単なる善悪論ではない。なりよりもまず、自ら死を決断しないという意志と決断である。
殺人や自殺を理論的に「説明」することは不可能である。
ただ善に結びつくかもしれないという可能性に賭け、殺さない(不殺)という決断するものである。

「もう生きていても無意味だ」と考える人は、結局は市場経済に必要とされる人間、給与明細や納税証明書が存在理由としているひとであろう。
または、他者である異性に欲望されない存在は無意味だとするものであろう。

これは「自己決定」とはとてもいえず、「市場」や「異性」(またはそのイメージあるいは社会による必要とされない人間の典型としてのレッテル)に「自己決定」させられていると言うべきである。

自己を脱落すること、みずから欠けること、しかし他者を肯定すること、他者のイデオロギー(宗教、思想)を否定しないこと、他者の目に映る自己を磨くこと。

ある人は人生は問いであり、人は問われている側だという。
これは言い換えると、ベストを尽くせということと同義である。
しかし問われ続けることは想像を絶する苦痛である。しかし、自己を脱落(とつらく)すれば、問いは消滅する。
無意識を統合した自己は2000年以上狂人の知恵をもってしても解明できなかったのは事実として存在し、著名な精神科医が「どうせ死ぬのになぜ生きるのか」という著書で、精神医学や心理学的見地から回答せず、
密教のトレーニング方法で回答をしめしている事実を考えると、最早、10年や50年そこらの技術で人生の問いとやらに回答する術はない(可能性が限りなく100に近い)ことは容易に想像ができる。

生きていることは、素晴らしいということは、仏陀の経典にはない。

「あなたのためを思ってやっているのよ」は支配による虐待行為であり、
「もう少し、人の気持ちを考えたら」は他者に対する一方的な自己の承認(あるいはイデオロギーの承認)の脅迫である。

他者に敬意を払い、支配されず、対等に自己を構成しなおすこと。関係性を広く深くすること。
これを続けることが善である。生きていることは素晴らしく、楽しいとはとても言えないだろう。

それらを前提としたうえで、何がダサくて、何がCoolなのかを自己決定することが、私の信念の根幹である。

善のイデア

プラトンが追い求めた善(のイデア)とは、先日ふれさせていただいた、『老師と少年』
の著者の南さんの『善の根拠』によれば、取引の関係にない(互酬関係)にない関りである。情けはただ人のためなりとして、見返りを求めず、彼岸(生きている)にいながら、他人を無条件に受容することである。さらに、善悪が自己を受容するかどうかにかかっている(自ら肯定されることなく、他者を肯定するかにかかっている)ならば、無根拠に他者が自己を課す(生を産む)ならば、自己も他者に自己を課さないというのが、不貪淫であり、無条件に他者を肯定するということは、不殺や他の戒も同時に課せられる。プラトンが叡智で善のイデアに立ち向かったのに対して、ニーチェは人間は根本的には「エロス」や「陶酔」や「美的なもの」「超越的なもの」をめがけて生きている。それらへ向かおうとする「力」の感覚こそ、生の本質にほかならない。しかし、個々の生がそのような欲望を持つ以上、人間全体の欲望を調停する機能として、徳や善があるのであり、力あるものが勝利するという力の論理だけが一切を覆うのに抵抗するための一つの方策にすぎないとする。

しかし、現代社会を考えてみると、力の論理だけが一切を覆っており、アメリカ大統領になることや、スーパーマン、金髪爆乳美女、アイドルや女子アナウンサーに向かって努力するのは、ある種の幼稚さを感じざるをえない。それよりもむしろ、聖人君子は偽善的だとしても、または(事実はそうではなかったとしても)ネルソン・マンデラや、ガンジーのような不撓不屈の精神や、ヨブ記のヨブのように、不合理な試練一切を耐えて、神を超えるような叡智にこそ人はあこがれるのではないか。(死ぬか善をするかの二択をせまられたことがある人の場合、欲望にはいかないことは必然だろう。)勿論、後者は少数派であり、大半はニーチェが指摘したように生きる。逆襲のシャアでシャアが「ならば、その叡智をいますぐ人類全体に授けて見せろ」とアムロにいうのだが、叡智がいきわたれば、人はもう人を造らなくなるだろう。それへの回答として、アムロはシャアのサザビーをボコボコにしたうえで、人間全体の優しさの可能性をアクシズを止めることで証明する。これは物語だが、ガンダムの一つの結論、すなわち善のイデアへの理想論的到達である。だから、後のガンダム作品のテーマはほとんど意味がないと私は考える。

善のイデアへの知的到達はすなわち、諸行無常や空への到達であり、欲望にどうしても向かってしまう人間性の否定でもある。それをとうといとするのが仏教であり、人は自分だけの快をどうしても求めてしまうから(生前は快も不快もなく、生まれた瞬間に赤ちゃんは不快と不安で泣く)、優しい人間が多数派になることはありえない。豊かに生まれた人は、自ら貧しくなろうとは決してせず、貧しく生まれた人は、豊かな人に嫉妬するだろう。人は生来的に優しくはない。ゆるやかな神の宗教が政治的利用されて紛争をまきちらしたように、宗教や法律で矯正しても、それはほんとうではない。人類が貧者の苦痛を共通で認識すれば、全員が善のイデアへの理想論的到達をするが、それは人間の品種改良と同義かもしれず、やはりプラトンへのニーチェの反論の否定は不可能としかいえないだろう。イデアはイデアでしかないのである。

老師と少年から見る 生の意味

『老師と少年』は恐山院代の南直哉さんが上梓された、小説である。
私は、仏教徒でも、キリスト教徒でもなく、特定の思想、宗教に属さないことをはじめに明記しておく。

この小説にでてくる少年は幼き日の南さんであり、老師は南さんのマナ人格であると考える。さらに「道の人」は仏陀のことであろう。老師の足を洗う少女は何を表すのかわからないが、老人と少女という元型があるから、仏陀や如来の足を洗う少女のような存在が仏教の経典のどこかにあるのかもしれない。

この小説は悩める少年が、老師の庵を尋ね、老師と話をする。老師は一貫して、説教はしないし、ありがたい教えをすり込んだりはしない。現実を教えて、少年に決断させる。

最初の夜に、(前夜)少年は死について、老師に尋ねる。死とはなにか。お星さまになることや、遠い世界にいくことや、天国にいくこととか、そんな詭弁をききたいのではなく、死自体はなにか?どうせ死ぬのになぜ、生きるのか?最後はすべて失われ、ひとりで死ぬのに、”立派な大人”になる必要がどこにあるのか?と少年は問う。

老師は答える。大人になるとは、そういった問いを隠すことであるという。隠すことで当たり前の世界はできている。という。そして、多くの子どもは大人に隠され、当たり前の大人になるが、数少ない子供は隠されていることを忘れない。と言う。
さらに、数少ない子供はその問いに苦しみ、考え続ける。考えてしまうものは、迷い、遅れ、損をする。何も報われないし、救われない。死について、考えるべきかどうかを少年は老師に必死になって聞くが、老師は少年を突き放して自ら決断させる。

第一夜に少年は老師を尋ねる。自死(自殺)は悪かと問う。老師は答える。生きていることが苦しい人には死が解決だと思われるだろう。生きているのが厭になった人には、死は休息だと思われるだろう。死に善悪はない。だから自死も悪ではない。という。しかし老師は解決や休息を特に欲していない少年に対して、人は自ら死ぬべきではない。という。たとえ、自死が悪いことでなくても、その人にとって、生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、人は自ら死ぬべきではないという。すべての善をつくるために、人は死ぬべきではないという。そしてそれは、恐るべき苦痛だから、生きるか死ぬかの選択を別の存在<神>に託す。<神>の責任にして、彼の命令にかえる。すなわち、死んではいけない。少年は反論する。

「<神>の命令に従うかどうかは生死が選べるのと同様に選べるのではないか。」

老師は答える。

「その通り、自ら決断するか、<神>の命令に従うかは同じことで大差がない。」

老師は続ける。

「生に善悪はなく、生が善を産み出すことがありうるだけである。死を拒絶して生を選んだものが、その意味を自ら考えたとき、悪を忌み、善を求めることを信じる。」

少年は問う。

「善と悪を考えなくちゃいけない、苦しみに満ちた生を選んだ私は善き人間なのか」

老師は善きか悪きかは答えず、老師もかつてそうで、今も生きていると言うのみだ。

四夜と五夜で、老師は聖者と隠者に教えを乞うた挿話について話す。聖者は神を神殿の柱のようにまっすぐ信ぜよというのみで、理解することをゆるさない。そして信じないと罰を与えるという。
一方隠者は虚無を第一とする。<神>は永遠の夜だという。人生に意味はなく、意味もなく死ぬ。自己とはすなわち錯覚で、見えるものも聞こえるものも全て意味がなく、考えても、考えたことにすぎず、何もかもが虚無の淵にかかる虹のようなものだという。

老師と少年は虚無について共感する。少年は老師にたまらず、問う。「虚無が苦しいのだ。虚無をどうしたらよいのだ。」と。

かつての老師は隠者に尋ねた。「すべてが虚無ならば、私はどのように生きたらよいのか。全てが無意味ならば死んでしまえばよいのか」

隠者は答える。「自ら死ぬ意味もない、人の生は酩酊状態のようなもので、欲望も意思も思考も、行動も捨てて、川が海に流れ込むように、目覚めながら眠り、生きながら死ね」という。

かつての老師は気づく。「虚無とは<神>の別名にすぎず、虚無を悟り、すべてを捨てるとは、<神>を信じて従うことと変わりがない。」と。

六夜で老師が少年に老師の師である<道の人>と菩提樹で、出会った話をする。

<道の人>は話す。『人は答えを求めてやまない。その答えとは何か?何に対する答えか?自分とは何か、何故生きるのかという問いへの答えか。違う。それはたった一つの欲望に対する答えだ。』 老師がその欲望について問うと、

『自分が自分であること、自分がいまここに生きていること、それを受け容れたい。
ただそれだけの欲望が答えを求め、そしてこの欲望だけが、生きていることの苦しみだ』

老師は言う。「他人に欲望されることで、自分を支え、生きていることを受け容れる。それを持てないから苦しみ、持ったとしても苦しみはやまない。」

<道の人>は言う。『断念せよ、自分を脱落せよ。ならば問いは消滅する。』

七夜で老師はこう結論づける。「自分は自分ではない。他者が規定する自分だ。何物でもない。そして、私として生きるほかない限り、知ることもない。自分は自分ではないならば、自分を作らねばならない。水を飲む器を作らねばならない。人が生きるとはそのことだ。人が水をのむとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ。なぜなら、引き受けなくてもいいからだ。」

老師は続ける。

「善とはどのように器をつくり、どうそれを使うかということで、たった一つの正しい方法などはなく、決して間違ってはならない。器は他者から作られ、他者によって磨かれる。器は水の外でつくられるのではなく、水の中で作られる。器の外の水をくむのではない。器を作り、それを磨くときそこに水は満ちている。」

老師は少年にこう締めくくる。

「友よ。器を作れ。困難な仕事だ。それを何度も磨く。一度打ち割って、作り直さねばならぬときもある。割れた器でのまねばならぬときもある。それでも、最後まで生を飲み干せ」

この本のあとがきにある教授の”ありがたい解説”が載っている。この幼い少女こそ、老師の言っていた「生きる意味より死なない工夫」であり、温かい未来を想像させると述べられている。この少年の未来はそんなに甘いわけはあるまい。