NHKの集金者と心理テクニック

私が、マンスリーマンションに仕方なく住んでいるときに、
某国営放送の集金取りが、借金の取り立てのように来たことがある。

彼は20代後半か30台前半の男性で見た目はチャラい感じである。ドアをちらっと開けるなり、テレビの存在を認識する。そして、こう言う。

デカいテレビありますねぇーー

私は何のことかわからず、まごまごしていると、

「受信料払ってください」

という。私は言い返す。

「テレビは見ていないし、まして国営放送など見ていない」

すると、彼はこう返す。

「地上放送が受信できるテレビがあれば、受信料を払わなければいけない法律があるのだ。法律違反をしたいのか? 本当はあなたも分かっているんでしょ?」

という。私は返す。

「そんな法律があるわけがない。大体このマンションの住人全員が払っているのか?確認が取れたら私は払う。」

彼は返す。

「それはプライバシーに関することなんで、できません

そして、有無を言わさず、紙にサインをさせようとする。

「しつこいな。帰ってくれ。そんな法律があるというなら、裁判所に行って令状をとってくれ」というと、彼は帰った。

そして、小心な私はWebで確認すると確かにそのふざけた法律があるのである。そして通産省だかに電話をすると、民間企業とのトラブルはこちらの管轄外である。という。

そして、国営放送のカスタマーセンターに電話すると、「お客様は、既に受信料をお払いのようです。」という。

こうなってくるともう訳が分からない。マンスリーマンションに引っ越す前に、受信料を私は支払っていて、現在は払う必要がないという

まぁそこで、私はブチ切れるわけなのだが、国営放送に対して、訴えを起こすほど冷静さを欠いてはいなかった。理由は以下の現象のため。

①通産省かどこかの省に電話をしたときに、取り合ってもらえなかった。

②国営放送の特権的な法律が存在するということは、国となんらかの結びつきが想定される。

③国営放送は、転居した私の住所を知っている。

集金者の慣れた態度と挑発行為

まず①からわかることは、管轄の省であるのに、このようなトラブルが多いことが予想される。そして、②は①の現象を裏付けする。③の現象も②の現象を裏付けする。

ここでは④の現象について考えてみたい。

集金者はこのふざけた法律と、私の住所と、受信料が未払いである可能性を情報としていてもっている。それに対して私は、この男が誰なのか、何の目的で来たのかがわからないまま、キーロックチェーンをかけず、ワンルームのドアを閉めずに開けてしまったのである。

つまり無防備にドアを開けた時点私は情報戦と心理戦で敗北しているのだ。集金者は地デジの受信機を持つ装置があれば受信料を払わなければならない法律があるのだから、払っていない(実際は払っている)こちら側は悪であるのだから、心理的優位にたてるし、私のアドリブで思いついた言い訳など、聞き飽きているだろうから対処も簡単だ。だが、裁判所の令状を持ってこいというのに対しては、引き下がった。これには何か理由がある。つまり、国民感情の逆なでと、裁判を起こすコストとリスクを三下の集金者が国営放送様に背負わせることができないのである。

心理戦については後述するが、この集金者は、何某かの方法で私の住所と在宅時間を特定し、文字通りドア・イン・ザ・フェイステクニックを使用し(ドアに顔を挟んで、一番最初に大きい要求を突きつける)、突然来客して、緊張が弛緩している虚をつき、法律を楯に恐怖で脅し、そしてこれらの行動に慣れている

このような集金者に対して、例えテレビがマンションに備えつきで、国営放送など1mm秒も見ていなかったとしても、我々は基本的には勝てない。

だが、執念深い私は、反撃のチャンスを狙っているし、今現在、地デジ受信機のないモニターはあるが、テレビやワンセグを一切購入していない。

表題のNHKは日本北極クラブという、会員が私のみのクラブです。

ユング心理学 コンプレックスの解消 総括

前述した河合氏の例によって、我々(治療者とクライアント)がいかに”実際的な努力”を払わねばならないかがわかったと思う。コンプレックスの解消のためには、コンプレックスと対決して、コンプレックスを”生きて”みて、それを統合してゆく努力が必要である。コンプレックスというと、あくまで自分の心の内部の問題と思ってしまうが、コンプレックスがいかに外的なものと対応し、外的にいきることが内的な発展といかに呼応するかがわすれがちであり、重要な点である。内的なものと外的なものの呼応性を指摘したが、この事実も非常に大切で、ある個人が対決してゆくコンプレックスがある場合は、ちょうどその対決を誘発するような外的な事象がおこることである。この内的外的現象が、一つのまとまりをもって布置される事実をユングは非常に注目している。人間は無数のコンプレックスをもっているが、そのうちのある一つのコンプレックスを問題とし、対決をしなければならない時機のようなものがあると思われる。強迫神経症(不潔恐怖)という症状が発生し始めることは、外的な行動としては望ましくないが、内的に見た場合は、コンプレックス解消への努力の道程の始まりとみることができる。そして、コンプレックス自体、常に否定されるべきものではなく、このような努力によって自我に統合されるときは、むしろ建設的な意味を持つものとなることが認められる。コンプレックスは”その自我にとっては”、否定されるものとして映り、破壊的な攻撃性と受け取られるのであるが、それが自我のなかに統合された場合はむしろ望ましい”活動性”として見られることも多いのである。

このようにコンプレックスの否定的な面のみならず、その中に肯定的な面をみとめようとし、また、外的には病症とみられるものの中に、建設的な自我の再統合の努力の現れを読み取ろうとするような態度は、ユングの相補性の考え方の特徴を示しているといえる。

我々は無数にもっているコンプレックスを数え立て、欠点の多い自分は必要のない人間だと考えるよりは、”その時”に布置されてきた(momentally constellated)コンプレックスの現象を避けることなく生き、最初はネガティブに見えたものの中に光を見出してゆく実際的な努力を積み重ねてゆくべきである。(ガンダムUCの「チャンスは必ず来る。そのときは迷わずガンダムに乗れ」というマリーダのセリフはこのことを表しているのかもしれない。)

コンプレックス解消の過程において、それとの対決の必要性を述べたが、これに従えば、コンプレックスを避けることはあまり建設的ではないことは明らかである。しかも、コンプレックスは自我によって十分に経験することを拒否された感情に色どられ、強化される点を考えると、いわゆる「全員主役の桃太郎」や「順位をつけない徒競走」のような教育的配慮は、むしろ劣等感コンプレックスを強化するのに役立っている場合さえあることを知るべきである。いかに先生が見て見ぬふりをしたり、心にもなくおだてても、たとえその生徒はわからないにしても、コンプレックスのほうは見逃しはしない。

劣等感コンプレックスの解消は、自分が劣等であるという真の認識によってなされることが多いのは、人間にとってつらい事実である。

コンプレックスに触られるのは誰しもつらい事実であり、そのコンプレックスとの対決という苦しい仕事を共にする決意もなく、たんにコンプレックスの痛みにさわることを事とするのは、他人の家の床下にある不発弾を親切ごかしに爆発させにいくようなものである。しかし、残念なことに市役所や障碍者支援施設にはこういった浅薄な知識と決意しかもたないPSW(精神保健福祉士)がとても多いのが現状だ。

「劣等感を持たせないことを信条とする甘い教師」も「中途半端に人のこころに踏み込んで、いたずらに傷口を広げる偽善的な医者もどき」も自分の内部にある大きいコンプレックスについては、まったく無意識な点が共通に認められるだろう。コンプレックスに手を下すことは全く容易ではないことは明らかであるから、社会人の礼儀としてコンプレックスに手を触れないのは当然のことといえる。しかし、一般社会は皮膚病の人、やけどの痕がある人や、足が不自由な人にどうしたの?と自分の好奇心の充足と感染の不安の解消の理由のみで平気で尋ねてくる。

ユングの名を有名にしたコンプレックスについて説明してきたが、無意識内に存在するコンプレックスが、いかに我々の意識的な行動と関連をもち、重要なものであることが分かるだろう。ユングはこのコンプレックスをさらに深めて無意識の奥に迫っていく。