アリとキリギリス 多様性について

童話アリとキリギリスで、キリギリスは夏楽しく生きるが冬は越せない。
この童話の伝えたいことは明白で、節制である。しかし童話というのは、決めつけが多いように感じる。差別と偏見を題材としたズートピアのような作品は少ない。アリとキリギリスでは個体が違う。

アリの中でも、欲に落ちて自堕落な生活を送るものがいるだろう。実際にアリのコロニーの中では一定数の働かないアリがいる。キリギリスも節制する個体もいるだろう。分類学上の見た目、鳴き声でひとくくりに分割して区別するのは危険である。

この童話が人の心をとらえるのは人間の本質に深くかかわっている。すなわち人はステレオタイピングを好むということである。黒人だから、女性だから、障碍者だからとレッテル貼りをしてマウント行為にいそしむ低級な遊びを人は良く好む。

これをしないというのは大変な労力を要する。何もしゃべらないほうがマシである。メジャーリーガーが入りたてのイチローについていつも曖昧な賛辞を言っていたのはこの為かもしれない。アメリカは人種差別にセンシティブである。だから心の中では、ヒットしか打たない臆病な黄色いサルと思っていても、ニュースの取材ではグッドプレイヤーだの最もチームに貢献している一人だとか言う。レイシストとされるトランプの大統領選挙もこのような事態だったに違いない。

多様性を認めて、差別発言をなくすようにするのは聞こえがよいが、異常な労力を要する。ここに人間の限界を感じるが、人間が発展するためにはここが肝要である。すべての人間が必要だとはとても思えないが、マウント行為にいそしむお偉方、政治家、タレント、お笑い芸人をSNSで叩くよりもまず自分がそれをしないのが重要である。近道などなく一歩一歩進まなくてはならない。

 

 

本当のブサイクの悲しい消失(独自研究)

人間同士が性交渉するための価値基準をルックスだけに絞って考えると、
上図のようになると私は考える。(あるいはルックス+付加価値(金、不動産)としてもよい。)

高さが上に行くほど容姿が良く、下に行くほど悪くなる。
真ん中を結ぶ奇妙な太線を需要線と呼ぶことにする。

映画ビューティフル・マインドにて、ジョン・ナッシュが金髪の美女が消える話をしていたが、あれは一夜限りの合理的な判断であった。

ロングタイムで考えた男性の需要線を考えると、上図のようになると考える。(ここでは特別な趣味の人を考えないものとする)

ブサイクが仮に妥協したとしてもブスを選ぶ。(本当は普通以上を選ぶはずである)
しかし本当のブスは選ばない。女性側も本当のブサイクは選ばない。
このゾーンが本当に需要がないのである。

このゾーンにいる人は、合理的戦略を立てようがない。付加価値を上げるなどをしないといけない。(金を稼いだり、試合に勝ったり、整形をするなど)しかし、それはほんとうは虚しいことに気付いている。

悲しい話はさておき、上図が仮に現実に即しているならば、普通以上の男性はやや美女を選ぶべきなのが合理的な判断である。普通帯にいる女性は、攻略難度を無視すると、容姿が上の人間がいるにもかかわらず需要がかわらないのである。

しかし、ここで反論がでるだろう。『フツメン帯に入っている人間はやや美女とはいえ、仮にも美女に手を出そうとは思わないのではないか?普通か少し下げたブスに照準をあわせるだろう』と。

しかしそうではないのである。ブサイク帯も同様の考えを持つため、やや美女以上は狙わないのである。だから普通帯に入っている人間はやや美女を狙うのが合理的判断である。

同様に考えると、ややイケメンは普通の女性を狙うのが合理的判断である。ルックスだけで勝負するならば、フツメン以下の男性には圧勝するからである。

全員が合理的判断をすると、イケメン=>美女(勝率と競合を考慮) 、ややイケメン=>普通(前述)、フツメン=>やや美女(前述)、ブサイク=>ブス、消失帯(消える)

となるのだが、現実は、感情や縁があるためそうはならない。もし街コンに行く場合は参考になるかもしれない。