本気でやらなきゃ死ぬ

ドラクエ11をやっていて思ったのだが、サービス精神が旺盛である。
ターゲット層もドラクエ初期世代、ダイの大冒険世代、ドラゴンボール世代に絞り込んでおり、広告を裏切らない作りになっている。

連日徹夜プレイで休もうとしたが、やはり制作をつづける。なぜなら、本気でやらなければいけない。さぼったら死ぬからである。

筆者は、映画「君の名は」に批判的な立場をとっていた。あの映画が伝承神話であれば、(神話要素をミックスしているが、入れ替わりものである)納得ができた。だが、「君の名は」の監督が大事にしていた、「現実のうまくいかなさ」、「不可能性」(秒速5センチメートルが顕著である)は消した。娯楽として承認されるため、商業的成功を収めるため、自己表現を辞めたのである。

庵野監督のエヴァンゲリオンで、シンジ君が乗る初号機が大活躍して使徒を爽快にビームやナイフでバッタバッタとやっつけて、シンジ君が英雄になる映画は庵野監督は絶対に作らないだろう。彼は会議映画と揶揄されたシン・ゴジラでリアリティを追求したが、ゴジラサイドのお約束、(つまり最後は人間が勝つ)を踏まえた上で、彼なりの現実的な表現をしたのだ。

だが、「君の名は」も心に残るつくりをしていた。観客が求めるサービスを提供していた。おいしい料理であったのだ。庵野監督が陶芸のような作品を作るのに対して、新海監督は、最高のカレーを作った。

陶芸は評価が分かれるが、カレーは全員が食べても全員がおいしいという。良し悪しである。

このサービスをとるか、自己表現をとるかが、ラッパーで言うRhymeの落としどころである。

ドラクエ11はもちろん、カレーの方だった、それも大盛で旨い。ゲームはもしかしたら、製作者の思想や哲学など邪魔なのかもしれず、ただ快を与えるために作るべきかもしれない。
何故なら、現実でうまくいかない人々が、ビデオゲームをするのだから。

20170814 23:10

ドット絵師を雇う金もないので、自作する。

わざわざFFMPEGでVP8でコーデックした半透明動画(webm)を使用するよりも、unityのアニメーションを使用したほうが簡単だった。

三和ゴッド

ゲームと「女神」とギャンブルと

この記事を読んで、私もこんな生活とほぼ変わらないと思った。
呉用みたいな人間が特定の外国のサーバーにいて、得意気に英語を話していたと思うと、彼らのために慣れない英語を駆使していたかと思うと、ぞっとする。

三和ゴッドと税金を納めている日本のオンラインゲームプレイヤーあるいはスマホゲームの課金者の差は何かを考えたときに、その差はバックボーンだと分かった。

三和ゴッドが深センでシャープの親会社の正社員として働いているならば、このような記事の書かれ方はしないだろう。

市場に必要とされ、社会貢献しており、家族を持っている人間を是とし、どの人間からも必要とされない家族もいない人間をクズと規定するならば、私はクズでいい。

クズはどの道、一人で死ぬので、虫みたいに無闇に増えない。しかし、平均的な人間は、クズを見ると、ザザ虫や線虫、ゴキブリをみるような目をする。存在自体が不快なのだろう。そのザザ虫やゴキブリが同時接続しているゲームで活躍していると、平均以上の人間が面白くないのは分かる。
しかも、ゲーム内でも告げ口社会で、下手なことは言えないものだから、無言プレイヤーが増える。何者でもない無言の観察者はいつも見(ケン)で、勝負してこない、コアプレイヤーのログを見ているだけだ。当たり障りのない玉虫色の世界で、視聴者全員に好かれるように作った休日の昼間の面白くない地上波のテレビのような内容をやって何が楽しいのかわからなくなった。しかも、「私は仕事や家庭が忙しいから覚えられないけど、ギミックを覚えるならもっと意味のあることを覚えたら?」とか、「こんなところでしか能力を発揮できないのか?、私はリアルも充実してますけど」みたいな態度をとられると、なんでこいつらとPT組んでクリアしなければならないのかという根本的な疑問にぶつかる。

ゲーム自体に意味はないのに、さらに意味のないストレスを強いられるならば、それはもうゲームではない。仮想(あるいは下層)社会システムプログラムだ。

オンラインゲームがいくつも生まれ、いくつも廃れるのは、プレイヤーがシステムに飽きるだけではなく、その社会は糞溜めだけど「こっちの水は甘いぞ」のような幻想が存在するからだろう。賽の河原で石を積むようなものだ。

リアルな社会がクソだからゲームをするのだが、そのリアルがクソだと思っている人間が同時接続して社会を形成するとやはりクソになるのだろう。気付くのが遅すぎたが、私は人間がそもそも嫌いであった。