直観能力に長けた都知事が失う信頼

現東京都知事は、全て未来を予知するような奇蹟的な女の勘を示してきた。政界渡り鳥と揶揄されてきたのも、そのためである。ヤバそうな党からは自分から抜ける。
そして、瞬間的に辞めて、瞬間的に行動する。論理性や感情はほとんど伴わず、女の勘だけで乗り切る。彼女の行動力や生命力は、怨恨によって倍加するようで、自分を攻撃した個人や団体を徹底的に破壊する。東京都民は、既得権益の不明瞭な都議会の決定の改善と政治資金の透明化を求めて、知事選で彼女を選んだのに、彼女が破壊した信頼は、どうあっても取り戻せない。都民ファーストの会で支持母体が宗教系で、彼女がアレルギーを示したにせよ、幹部の人間が不祥事を起こしたにせよ、彼女の総理大臣になりたい欲求を満たすために、切られてきた人間は多い。崖から飛び降りる気概で臨んだ選挙についてきた男性議員も切られたような気がする。(不明瞭)

彼女は確かに努力しているが、感情を感じさせず、社会的なつながりを拒絶する。ただ、自分が綺麗でいたいだけの人間である。浪花節や仁義は不要だと考えている一方で、保守派であり、女性問題に関してはリベラルである。関係を斬って、返り血のついた手を入念に洗う行為をそろそろやめないと、男性はおろか、リベラルの女性からの票もとれなくなる。そしてまた、どこかの島に飛ぶことになるだろう。

何度惨敗しても、党首をやめない民進党の女性代表のほうが、より泥臭く、血にまみれて好印象であった。女性総理の可能性は現状泥にまみれている彼女のほうが高いと私は考える。

性的弱者からの搾取手法として捉えた場合の女性アイドル商法

6月24日幕張メッセのアイドルイベントで、アイドルの殺害未遂事件が起きた。

犯人は24歳の男性で、ネットに上がっている男性の写真(信憑性は不明)を見ると、お世辞にも容姿端麗とは言えない。

女性アイドルは、同じ人間であるのに、ファンがCDと言う体をとった握手券を何枚買おうと、ファンの中のキモオタのことを、”壁のひび”くらいにしか思っていないし、できることなら、握手会などしたくはないはずである。なぜアイドルになりたいかと言うと、すなわち人間の根源的欲求である『自己受容の欲求』が肥大しているためである。ここにいてもいいこと、存在してもいいこと、の欲求が肥大し、他者の同年代の女性に勝ることや性的弱者の不特定多数の異性を踏みにじることでその欲求はさらに満たされる。際限がないその欲求は、主催者の悪辣な『グループ内での選挙』によって、握手会やSNSでの選挙活動を余儀なくされる。握手券と投票用紙を何枚も買った男性が、同じ人間であるにもかかわらず、金を払わされたあげく、キモオタマジ最悪のような、ツイートを見てしまえば、人生経験が浅く、自分のことをよく理解していない若い男性が殺意を持つのは自然である。(アイドルに限らず、情事のもつれとして、この種の事件は多い。)このような男性をサイコパスというラベルを貼り、排除するのは簡単だが、このような搾取構造の商売をつづけるならば、同じようなさらに凶悪で悲惨な事件は起きるだろう。(用意周到な犯人の男性がわざわざ発煙筒を焚いたことは何らかのメッセージである。)システムがおかしいことに気付くべきである。資本主義で勝負していて、やましいことはないとするより、偶像としての生ける神として宗教として奉る方が話が分かりやすい。(48にもそういう意味があるのだろう)やっていることは、女性を利用した主催者へのお布施となんらかわりがないからである。

(さらに言えば、商品価値がなくなったアイドルの女性は転落人生を送るか、見切り時を見つけて、金持ちと結婚するしかない。)

 

般若心経入門

般若心経とは”はんにゃしんぎょう”と読む。しんきょうではない。प्रज्ञापारमिताहृदय : Prajñā-pāramitā-hṛdaya、 プラジュニャーパーラミター・フリダヤから来ている。
はんにゃとは、サンスクリット語 प्रज्ञाprajñā,プラジュニャー; パーリ語: पञ्ञाpaññā,パンニャーから来ており、般若の面のような妖怪の意味ではない。般若とは知慧という意味だ。アビダルマでは「慧」 (prajñā) を心の作用として、それは見られる対象を分別し、それが何であるかを決定し、疑心を断じて、そのものを本当に理解する心のはたらきであるとして、それを「簡択」(けんちゃく、簡はえらぶこと・択はきまりをつけること)の作用をもつ心のはたらきとする。この慧によって決断することを「智」 (jñāṇa) という。
波羅蜜多という奇妙な漢字列はpāramitā (パーリ語: पारमि、Pāramī、 パーラミー、サンスクリット語: पारमिता、Pāramitā、 パーラミター)とは、パーリ語やサンスクリット語で「完全であること」、「最高であること」、を意味する語で、仏教における各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指す。到彼岸(とうひがん)、度(ど)等とも訳す。

六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ、梵:Ṣatpāramitā)とは、ブッダになりうる資質を獲得するために実践する六つの項目のこと。「六度(ろくど)彼岸」とも呼ばれる。

  1. 布施波羅蜜 – 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。
  2. 持戒波羅蜜 – 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。
  3. 忍辱波羅蜜 – 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。
  4. 精進波羅蜜 – 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。
  5. 禅定波羅蜜 – 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。
  6. 智慧波羅蜜 – 般若(はんにゃ、Prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。そういえば、六波羅探題というよくわからない鎌倉時代の職があったが、この六波羅蜜からきているかもしれない。

以下は、代表的な流布テキストである。300字程度である。

仏説・摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩・行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識・亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智、亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離・一切・顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。般若心経

羯諦羯諦、波羅羯諦というのは「羯」は、行きなさいの意、「諦」は、悟りの世界の意。つづく「波羅羯諦」の「波羅」は、修行の意。修行をやって悟りの世界へ行けということである。つまり、自力の修行をしている人が読むお経である。薩婆訶とはソワカであり、真言(マントラ )である。真言はヤバめなので解説は省略する。
色即是空とはこの世の万物は形をもつが、その形は仮のもので、本質は空(くう)であり、不変のものではないという意。空即是色とは物の本性は空(くう)だが、それがそのままこの世の一切のものであるということ。無や不の後にネガティブな言葉が続くことがわかる。仏教の空とはシューニャ(サンスクリット語: शून्य, śūnya)、śū (= śvA, śvi、成長・繁栄を意味する動詞)からつくられた śūna から発展し、「…を欠いていること」という意味。(インドでシューニャは数字の0を意味する)

ネガティブな語を否定する文が多いことから、妖怪退治や病気治療のときに唱えられてきた。

つまり人生は意味がないから、修行して、0になれという身も蓋もない話なのだが、何故か支持者が多いのが仏教である。差別や貧困にあえぎ、不幸が輪廻したとしても、それに対抗する手段としてこの宗教があるのだろう。

皮膚科の先生ヤハウェ

私の近所の皮膚科に奇妙な診療所がある。医師は一人で、年のころ40代半ば、あるいは50代前半だろうか、女性である。その診療所だけ、治外法権の女性医師による独裁国家である。

私の場合だけつらく当たることは考えられないので、男性患者及び、医療事務、クラーク、薬剤師には同様の傲慢さで応対していると思われる。私は自分の醜い手にはあまり関心がないので、「手はどうですか?」という問いに対して、「大して変わらないですね」と回答すると、ヒステリーを起こした。「治ってるじゃないの!そういういい方されると傷つくのよ!」と言う。なるほど、医師も傷つくらしい。

そういえば、私も傲慢な態度でよく人を傷つけていたような気がする。私の影の鏡をみているようである。これは投影の良い対象であるが、病院を変えたいと思ったことは言うまでもない。しかし、今後は誰に対しても、言葉を慎重に選ばなければならないと考えるきっかけを与えてくれたことは感謝である。

聖書のヨブ記には、ヤハウェの理不尽で破壊的ともいえる虐めに耐えて、ヨブの信仰心がついに神を折れさせる話が語られている。ユングのヨブ記への回答の一節には、ヨブ記におけるヤハウェは全知全能であるが故に、信仰の対象でなくなることを恐怖したとする。サタンはヤハウェの影のように、ヤハウェに対して賭けを持ちかける。「ヨブの厚い信仰も過酷な運命に屈しては、捨ててしまうのではないか?」
ヤハウェはそれから、ヨブを虐げ続けるが、ヤハウェにヨブは神が自分の目の前に顕現したことで、神を知り、神が慈愛に満ちて、完璧な存在でないことを知りながらも、信仰心を捨てず、ヤハウェの傲慢な質問に対して、ヨブは叡智に満ちた回答を続けた。ユングは全能なる神に対して叡智が勝利したとしている。

ヨブ記には有名な次の一節がある。

「これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて
神の経論を暗くするとは」
そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を超えた
驚くべき御業をあげつらっておりました。
「聞け、わたしがはなす。
おまえに尋ねる。私に答えてみよ」
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、私は塵と灰に伏し、
自分を退け、悔い改めます。

すなわち、神は正義など欲しはしない。ただ力を誇示するのみである。ヨブは神を道徳的存在として敬っていたので、そのことを考えに入れられなかった。
ヨブは神の力を疑ったことはないが、それと同じように、神の正義も望んでいた。しかし、ヨブは神の矛盾した性格に気付いた時、既にこの過ちを撤回し、神の正義と善の収まる場を設ける。

ヤハウェは灰にまみれ、陶片で腫物を掻く虫けらのようなヨブに高らかに力を誇示するが、人間の限界を超えた暴力を受けたヨブにそんなことをする必要はない。ヤハウェが自身の全能と偉大さを強調するその激しさは、ヨブとのかかわりでは無意味なことだ。ヤハウェが恐れているのは、ヤハウェの全能を疑う聴衆である。ヤハウェは自分が最も嫌いな神の懐疑者の顔をヨブに投影している。しかし、この懐疑者の顔はヤハウェ自身である。
ヤハウェは大洪水のように非合理的な振る舞いをするかと思えば、次の瞬間には、愛され、称賛され、尊敬され、崇められ、義をたたえられることを望む。
一方で、自分の行動が、自分の道徳規範の項目に反していても、全く意に介さない。
ユングは以下のようにヤハウェを評する。

「いかなる倫理的法則にも従わない、支配できない、残酷な自然の諸力すべての創造者、それが私だ。私自身も非道徳的な自然の力の一部であり、自分自身の背後(影)をみることができない、純粋に現象するだけの人格なのだ。

これはヨブにとっても、道徳的な満足のひとつである。人間はその無力さにもかかわらず、神自身よりも上位の裁判官の役にまで引き上げられるからである。

傲慢な上司、政治家、親などいくらでもこのような似た例はあげられるであろう。暴君に対しては、服従と従順を示し、叡智をもってこえるしかない。
皮膚科のババアは皮膚科だからって皮膚のことだけ見ればいいってもんじゃないんだけどとはいいたいが、これも試練である。もしかしたら、悪役を無理に演じているのかもしれない。
その可能性は0に近いが、私の病症が改善しているのは間違いない。

FF14 メモ

0:00 12:00 スタースピネル原石 下1 紅玉海
2:00 14:00 トリフェーン原石 下3 辺境
6:00 18:00 ビーチの枝 上 3 辺境