ユング心理学 コンプレックスの解消 総括

前述した河合氏の例によって、我々(治療者とクライアント)がいかに”実際的な努力”を払わねばならないかがわかったと思う。コンプレックスの解消のためには、コンプレックスと対決して、コンプレックスを”生きて”みて、それを統合してゆく努力が必要である。コンプレックスというと、あくまで自分の心の内部の問題と思ってしまうが、コンプレックスがいかに外的なものと対応し、外的にいきることが内的な発展といかに呼応するかがわすれがちであり、重要な点である。内的なものと外的なものの呼応性を指摘したが、この事実も非常に大切で、ある個人が対決してゆくコンプレックスがある場合は、ちょうどその対決を誘発するような外的な事象がおこることである。この内的外的現象が、一つのまとまりをもって布置される事実をユングは非常に注目している。人間は無数のコンプレックスをもっているが、そのうちのある一つのコンプレックスを問題とし、対決をしなければならない時機のようなものがあると思われる。強迫神経症(不潔恐怖)という症状が発生し始めることは、外的な行動としては望ましくないが、内的に見た場合は、コンプレックス解消への努力の道程の始まりとみることができる。そして、コンプレックス自体、常に否定されるべきものではなく、このような努力によって自我に統合されるときは、むしろ建設的な意味を持つものとなることが認められる。コンプレックスは”その自我にとっては”、否定されるものとして映り、破壊的な攻撃性と受け取られるのであるが、それが自我のなかに統合された場合はむしろ望ましい”活動性”として見られることも多いのである。

このようにコンプレックスの否定的な面のみならず、その中に肯定的な面をみとめようとし、また、外的には病症とみられるものの中に、建設的な自我の再統合の努力の現れを読み取ろうとするような態度は、ユングの相補性の考え方の特徴を示しているといえる。

我々は無数にもっているコンプレックスを数え立て、欠点の多い自分は必要のない人間だと考えるよりは、”その時”に布置されてきた(momentally constellated)コンプレックスの現象を避けることなく生き、最初はネガティブに見えたものの中に光を見出してゆく実際的な努力を積み重ねてゆくべきである。(ガンダムUCの「チャンスは必ず来る。そのときは迷わずガンダムに乗れ」というマリーダのセリフはこのことを表しているのかもしれない。)

コンプレックス解消の過程において、それとの対決の必要性を述べたが、これに従えば、コンプレックスを避けることはあまり建設的ではないことは明らかである。しかも、コンプレックスは自我によって十分に経験することを拒否された感情に色どられ、強化される点を考えると、いわゆる「全員主役の桃太郎」や「順位をつけない徒競走」のような教育的配慮は、むしろ劣等感コンプレックスを強化するのに役立っている場合さえあることを知るべきである。いかに先生が見て見ぬふりをしたり、心にもなくおだてても、たとえその生徒はわからないにしても、コンプレックスのほうは見逃しはしない。

劣等感コンプレックスの解消は、自分が劣等であるという真の認識によってなされることが多いのは、人間にとってつらい事実である。

コンプレックスに触られるのは誰しもつらい事実であり、そのコンプレックスとの対決という苦しい仕事を共にする決意もなく、たんにコンプレックスの痛みにさわることを事とするのは、他人の家の床下にある不発弾を親切ごかしに爆発させにいくようなものである。しかし、残念なことに市役所や障碍者支援施設にはこういった浅薄な知識と決意しかもたないPSW(精神保健福祉士)がとても多いのが現状だ。

「劣等感を持たせないことを信条とする甘い教師」も「中途半端に人のこころに踏み込んで、いたずらに傷口を広げる偽善的な医者もどき」も自分の内部にある大きいコンプレックスについては、まったく無意識な点が共通に認められるだろう。コンプレックスに手を下すことは全く容易ではないことは明らかであるから、社会人の礼儀としてコンプレックスに手を触れないのは当然のことといえる。しかし、一般社会は皮膚病の人、やけどの痕がある人や、足が不自由な人にどうしたの?と自分の好奇心の充足と感染の不安の解消の理由のみで平気で尋ねてくる。

ユングの名を有名にしたコンプレックスについて説明してきたが、無意識内に存在するコンプレックスが、いかに我々の意識的な行動と関連をもち、重要なものであることが分かるだろう。ユングはこのコンプレックスをさらに深めて無意識の奥に迫っていく。

人形のアニマ Blood Bourne

著者は人間に絶望しており、恋愛や結婚はコストがかかるだけの負荷にしか思えない。最も醜男である私がいうのは適当ではないのは承知している。ペルソナの相補性の存在であるアニマ(後述する)は最初母親の形をとり、代理母、娼婦、恋人、神霊、叡智の順で変化するという。アニマが理想の女性像と同義とするのは正しくないがおおよそあっていることもあるだろう。著者の理想の女性像を考えたときに、人形が考えられた。勿論生殖機能も機構もついておらず、灰色の血を流す。これはblood bourneの影響が強いが、破壊することも、愛することも自由で、破壊から再生した時には記憶を失っている。後味が悪いため、破壊は一度しかしない。この人形は造物主である私を無条件に愛し、造物主である私が人形を本質的に愛さないことを知っている。このような人形の段階のアニマは存在するのだろうか。エヴァンゲリオンでいうところの綾波レイが近いが、綾波レイは複製されていて一点ものでないため、(しかも劇中で何度も死ぬ)アウラは宿りにくいし、そもそも人形ではなく巨大化する人外である。そうではなくてもっと適当なのは、からくりサーカスの”よい”フランシーヌ人形である。そして私が、ディープラーニングと人工知能を使って作りたいのも人形なのかもしれない。からくりサーカスにおけるフランシーヌ人形の作者は完全に壊れていたが。

ユング心理学 コンプレックス解消の治療の一例 2 治療例と著者自身の失敗例

コンプレックスとの対決について、注意書きをしておくと、内向的人間が陥りやすいのだが、

「自分の内部を見つめて苦行したり、自分の欠点について検討したり反省したり、孤独を求めて旅に出て本当の自分探しをしたりすることではない。」ただし、コンプレックスに気付いていない場合は別である。

先の潔癖症(不潔恐怖症)の子どもに対して行った、河合氏の治療の続きを記述する。治療者(カウンセラー)にとってまず大切なことはこの子どもに対して、治療場面で自由に行動できる状況を作ることである。遊戯療法の根本は治療者がクライアント(ここでは子ども)に対して、いかなる表現も受け入れる態度で接することである。このような受容的に接すると、子どもは初めのころはあまり口もきかず、自分だけで知的な遊びをしていたが(現代では、携帯ゲームだろうか)だんだんと攻撃性を発揮するようになる。3回目の来談では組木(木のパズル)に熱中し、事物を対象として攻撃性を表す。4回目にはボーリングの競争をしようといって、これに熱中する。そのうち一所懸命になってくると、黒板につけたスコアを黒板ふきで消すのがもどかしくなり、手で消して、その手で汗をぬぐうから顔も汚れる。ここに不潔恐怖のまったく裏返しの行動が認められるわけであるが、このような現象は治療画面でしばしば認められることである。コンプレックスは相補的に存在し、劣等感がある場合、優越感が共存することを前に述べた。この子どもの場合であれば、家族の禁止を破って、汚いことや危ないことを気ままにしたい気持ちと不潔さを極端に恐れる気持ちが心の中に共存しており、それが統合されずに、片方のみが症状として出現したわけである。そして、許容的な治療場面において、今まで抑えられていた行動が出現したわけである。このような例は礼儀正しいクライアントが、来談する日をふと忘れてしまって、治療者に待ちぼうけをくわせたりすることに認められる。6回目の来談ではこの傾向が顕著に出た。子どもは治療者とドッジ・ボールの投げ合いをする。治療者が受けるのをたじろぐほど、精一杯ボールを投げつけ、汗をかきながら熱中し、汚れを気にせず行動する。これらの行動を今まで抑えつけられていたものを発散するとのみ考えるのは間違っている。

たしかに、抑えている感情を発散するだけでも効果はあるが、この場合、このような表出が治療者という一人の人間に対してなされること、治療者がその表出の意義について知り、それを受容することは非常に大きい意味を持っている。

治療者の存在によって、クライアントは自分のコンプレックスをたんに”発散させる”にとどまらず、それを経験し、自我の中に取り入れることができるのである。

ここに、クライアントがボールの投げ合いを欲したことは、非常に象徴的である。攻撃性のボールを文字通り受け止めた治療者は、それを正面からクライアントに投げ返す。この受け入れと対決の繰り返しのなかで、クライアントは今まで自我の中から排除していたものを徐々に取り入れ、自我の再統合をはかるのである。(この様式と仮定はボクシングに非常に似ている。人生をボクシングに例える人が多いのもうなずける)

このように、治療場面で進展がみられる一方で、クライアントの家庭ではむしろ悪化したように見える。「トイレにお化けがいる」とか、ご飯の中に茶碗のなかに虫が入っているといったり、恐怖感を示し、家の人を心配させだした。これは、今までの考察からすれば当然のことであり、抑圧されていた攻撃性が治療場面において表出されるにつれ、それの外界に対する投影や恐怖感が強く意識されだしたと考えられるのである。つまり、外的な行動は悪化したようにみえながら、むしろそれは治療が進展していることを示している。治療の経過中にクライアントの行動がより悪くなることは、しばしば生じる現象であるが、治療者のもつ確信に支えられて、治療が継続し、終結へと導かれていくのである。われわれ(河合氏と子どもとその母親)の場合も母親の不安は一時的に増大するが、治療は続けられ、この子供の攻撃性の表出は段々と質的な変化を見せる。10回目ごろの来談では、ボールを治療者に向かって投げず、壁に当てて受け止め、連続何回できるかを治療者と競争するゲームに熱中する。そして、途中で水を飲みたいといい、そして、途中で水を飲みたいといい、そのときに自発的に手や顔を洗い、治療者のさし出したハンカチで拭く。これは家庭における清潔に対する欲求がコンプレックスに根ざす強迫的なものであったのに対して、ここでは、全く自発的に、自我内に統合された行動として手やを洗うことができたとみることができる。そして、ハンカチをもっていなかったため、治療者のハンカチを借りたのも興味深い。今までは、攻撃の対象として、あるいは攻撃を加えてくるものとして見られていた治療者と親和的な関係を持ったのである。(これもスポーツと類似している)これが急激な変化であったのか、次回の来談には少し混乱が認められた。母親と一緒に遊戯室に入ることを固執し、治療者はそれを受け入れず、プレイするかどうかは自分に好きにするといいと言うと、遊びたくないと言って帰る。しかし、次にはやってきて、今度は紙ヒコーキを作り、遠くへ飛ばす競争をして遊ぶ。そして、治療者に面白いヒコーキの作り方を教えてくれる。ここでは攻撃性は、より建設的、創造的なゲームを通じて表出され、同時に治療者に対して、神話的な行動が示されている。そして、最終回には、儀礼的に、治療の初期にしていた遊び(組木)から最終回に至るまでの遊びをやってみせ、「前こんなことをしたな」という。これは成人の心理療法の場合、終わりに近くになると治療の経過を振り返り、自分の変化の過程を明確化しようとする話が現れるのとまったく軌を一にした行動であると思われる。このような過程を経て、約半年にわたる遊戯療法により、強迫症状も焼失し、友人ともよく遊ぶようになり、治療を終結した。

ここで、母親と子どもが同時に精神病に罹患している場合、同時に医師は治そうとする。医師の立場からすれば、日増しに増える精神患者を抑えきれないため仕方のない面もあるが、頼りなく、自信もなく、会話内容が解体している子ども(年を取っていても)よりも、母親の意見に比重をおいて聞く場合が多い。著者自身の経験として、母親が完全に壊れており、社会に適応する歪んだペルソナが形成されている場合、この親の意見を医師は聞くべきではない。さらには、1回の診療時間は5分~良心的な場合30分だが、親子同時に治療することは医師の傲慢であると言わざるをえない。著者自身、母親も精神病の治療を同じ医師に受けていたが、母親は安定しているフリをずっと続け、家では滅茶苦茶な破壊的行動をする。最後には母親は家を出て、ほんとうのことを、手紙を書いて主治医に伝える。医師は驚いて、自分の方針が全く間違っていたことを知る。老齢の経験のある医師でもそのような失敗に陥るのだから、精神病を同時に罹患している親子は別の医師で受けるべきだと考えられる。勿論その選択肢も子どもである私に選ぶこともできたであろうが、心神喪失状態のわたしは、父親の恐怖政治と母親の支配下に置かれており、思考もできないし、判断ができなかった。このような遊戯治療も、母親が壊れている場合、途中で経過がよくなっていても、家庭で外面的な悪化をみせれば、母親は子どもの意見を聞くわけもなく、治療を中止するだろう。

ユング心理学 コンプレックス解消の治療の一例 1

コンプレックスの解消は手をこまねいてできるものではなく、それに対決してゆくことによってはじめてなされることを述べたが、ここに治療例を示して、その過程を明らかにする。

小学3年生の潔癖症(不潔恐怖症)の男の子が、トイレの後、10分間も手を洗っていたり、食事の時も不必要な清潔さを母親に求めて困らせたりする。河合氏はこの治療を引き受けることになり、週に一回、親のカウンセリングとこの男の子の遊戯治療を引き受けることになった。親のカウンセリングで明らかになったことは、祖母による男の子への極端な過保護が大きい問題で、このためにクライアント(男の子)はつねに世話を焼かれて育ってきたということである。ご飯をたべさせてもらったり、靴を履かせてもらったり、近所のこどもたちと危ない遊びをすることを禁じられて育ってきた。このような子どもが自我を発達させる過程において、自主的に行動したり、少しでも攻撃的なことをすることを極端に抑圧されてきたことは容易に想像できる。ときには近所の子どもといたずらもしたかったであろうし、つまみ食いもしたかったかもしれない。しかし、これらのことはすべて禁止されたため、この子どもの自我に組み込まれることなく、コンプレックスとして形成されたに違いない。そして、それらのコンプレックスは、やってみたくなった気持ちや、禁止に対する反発の感情をともなって、強い感情に色づけられたものとなったことであろう。しかし、この子どもは外から見る限り行儀のよい、”よい子”として見られてきたであろう。このよいことしての自我(ペルソナといってもいいかもしれない)の後ろに、強いコンプレックスが形成されてきたのであるが、このコンプレックスを名付けるならば、一応、攻撃性あるいは活動性のコンプレックスといえるだろう。

攻撃性と活動性を一緒にするのは不明確に思われるだろうが、後述するようにコンプレックスの現象は複雑なので、簡単には命名できない。この場合、反発心や強い感情がきつくでれば攻撃性と一般には思われようし、このコンプレックス内の力が適当に自我の中に取り入れられれば(統合されれば)活動的ということにもなろう。英語だとaggressionという言葉が適切であろう。人間が攻撃的であるのは好ましくないが、攻撃性を過度に抑圧するときは、むしろ活動性のない弱い人間になってしまう。ただ、この子どもについては、攻撃性を全く抑圧してしまっていると考えるのは間違いである。知的レベルが非常に高く、勉強はできるし、知的な活動性は高かった。(来談した時には強迫症状のため勉強にも障害がおきていたが)また家庭内では容易に想像できるように内弁慶ぶりを発揮していた。

この例からわかるように、コンプレックスの現象は複雑である。教室では活発に発表し、家ではやんちゃでこまるといわれては、攻撃性の極端な抑圧による活動性の低下という公式で考えるとわからなくなることがあるかもしれない。攻撃性といっても意味が広く、そのうちのどのような部分がコンプレックスとなっているかを考えるべきである。自我の統制が弱まる家庭などの場合にコンプレックスの力が少し強くなって、行動が変化する事実も知るべきである。コンプレックスの複雑な現象をしらず、公式的な考えに頼り、コンプレックスに名前を付けてばかりいると、わけがわからなくなり、建設的な意味がなくなってしまうのである。

この事例の場合は攻撃性を抑圧しながらもおとなしい成績の良い子どもとして、成功してきたが、とうとうコンプレックスの力が強力になってきて、それが抑えきれなくなった。

自我は、容認しがたい攻撃性の出現に対して、恐怖感や嫌悪感を抱くが、それを内的なものとして認めることをあくまでも拒否して、外界に投影し、潔癖症(不潔恐怖症)を形成するようになったと考えられる。以上の点が、この子の症状形成について一応考えられることであるが、これがわかっても治療が終わったわけではない。そして、このわかったことをこの男の子に説いてみても始まらない。もちろん、以上のような点がカウンセラーと母親の話し合いを通じて徐々に明らかにされてきたことは大きな意味を持つ。それは母親自身が話し合いの中で自ら考え、発見していく体験がなされるからである。そして当人の子供はそのコンプレックスについて知的に頼るのではなく、コンプレックスと対決していくことが治療の中に要請されるのである。

冷静な観察と思考、分析が精神医療に必要なことがわかる。また、被治療者本人が”気づき”、考え、発見していく経験が必要である。これは学習と同じである。

ユング心理学 コンプレックスからの防衛 2.投影 ヒーロー願望2

2.投影

投影(projection)の機制は自分の内部にあるコンプレックスを認知することを避け、それを外部の何かに投影し、外的なものとして認知する。

実際、「人間はみな、ズルいものだ」と主張する人が非常にズルい人だったり、「ひとというものは結局薄情なものだ」と嘆く人自身、あまり親切な人とはいえない場合が非常に多い。そして、これらの「人間は」とか「ひとというものは」という一般的な呼称の中に、言っている人自身が含まれていないような表現であることは興味深い。自分を除いておいて、人は皆ズルいなどというのは、投影の機制が働いていることを如実に示している。この投影の程度が強くなり、すべての人が自分の悪口を言っていると思ったり、ついにはその悪口が幻聴として聞こえ始めると、これは病的なものと言わざるを得ない。

病的なものとはいわなくても、健常者でも、大なり小なり投影の機制を働かして生きている。自分のコンプレックスを他人に投影して自我の安全を図るわけである。投影をする場合は、投影をされる対象となるひとが、ある程度、投影を受けるきっかけを持っている場合が多い。つまり投影対象者に対してある程度コンプレックスを持っている。このため、投影を受けた人が、そのコンプレックスを逆投影することも多く、両者の関係はますます悪化する。コンプレックスは誘発現象のものを起こしやすいので、自分の内部にコンプレックスを多く持っている人は他人のコンプレックス(自分のではない)に気付きやすいこともある。このような人が自分は「感受性が強い」として、カウンセラーに適していると確信している場合もある。自殺未遂をした人が世界中の悩める人を救いたいと述べた例をあげたが、コンプレックスに脅かされる人々が、自分の内部に立ち向かってゆくよりも、外のひとたちを救うことを考えるのも一種の投影の機制が働いているものと考えられる。

投影の機制は常にマイナスの面をもっているわけではない。逆にこの投影によって、われわれは自己のコンプレックスを認知し、それと対決してゆけるとさえ考えられる。自分の中の権威に対するコンプレックスを他人に投影して、目上のひとであるとすべて恐ろしいように思っている場合を考えると、いつも恐ろしいと感じていた人が実は親切な優しい面をもっているとき、「おや」と思うに相違ない。これは現代で言う”ギャップ萌え”といわれるものではないだろうか。現代の人はギャップ萌えで思考停止してしまう傾向にあるが、本来であれば今までの恐ろしいと思っていたことが現実に即していないこと、そのようなものが自分のコンプレックスに根差していた思い込みであることを悟るべきである。これを投影の引き戻し(withdrawal of projection)というが、わたしたちは、生きていくのに、自分の投影機制の使用について尻込みせず、同時に現象を観察して取り入れてゆく態度を持つならば、自分にとって悪と思っていた人の中に、それとは違ったものを見出すのに相違なく、このときに影のひきもどしがおこなわれる。

このようにしてわれわれは自分のコンプレックスを認知するのだが、この「投影―投影の引き戻し」の過程において、コンプレックスの中に蓄えられていた心的エネルギーは、流れ出て建設的な方向へと向かう。このようにコンプレックスの内容を自我のなかに統合してゆく過程には、常に情動的な経験が伴うものであって、単にコンプレックスについて知的な理解をし、その内容について耳年より的に概念を得ても、逆に自我とコンプレックスの統合の過程を阻んでしまう。知識や理性によって、一時的にコンプレックスの働きを抑えたように思っていても、ユングが言うように我々がコンプレックスを無視できたように思っても、コンプレックスのほうが我々を無視してはくれないのである。

コンプレックスの投影の問題からコンプレックスを自我内に統合する過程を述べた。これを要するに、コンプレックスの解消を目指すならば、それと対決するほかない。心理療法、精神療法によって悩みを解消するという場合、この”よさげな”方法によって、積年の悩みが完全に消え去ると思っている人が多いが、実際の療法は実のところ悩みとの対決であって、悩みを深めることである。次回、コンプレックスを解消した少年の事例をあげる。